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2008年06月22日 礼拝説教  【イエスへの迫り】 笠原 義久

<説教>  
マルコによる福音書7章24~30節

 

 

 「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた」とあります。「そこを立ち去って」というのは、これまでの舞台であったガリラヤから国境を踏み越えて、ということでしょう。イエスがなぜそうしたのか、その動機については一切触れられていません。
推測が許されるならば、この箇所に先行する七章一節以下の、エルサレムのユダヤ教当局を代表する者としてガリラヤにやって来たファリサイ派の人々や律法学者たちと、イエスとの間に交わされた論争、律法に定められている「食事のときに手を洗う」ことを発端に展開された浄・不浄論争、しかし最も中心的には、まことの神礼拝をめぐる論争 ―― そうした論争の場を離れて、ということでしょう。しかしそこにはもっと強いイエスの意志が働いていたように思われます。偽善を偽善として認めず、自らを絶対視し、まことの神礼拝をする者、信仰ある者、神によって選ばれたエリートであるという自負によって塗り固められているユダヤ教、さらにそのユダヤ教によって立っているイスラエルの宗教的・政治的・社会的な体制そのものに対するイエスの明白な「否」が、「そこを立ち去る」という短い一言に込められているように思います。イエスは決然として国境を踏み越え、ティルスの地方へと向かったのです。
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さてこのティルスの地方という場面設定は、ティルス、シリア・フェニキアの女という言葉からも明らかなように、旧約聖書列王記(列王記上一七章八節以下)に記されている一つの故事を想い起こさせます。その故事とは、預言者エリヤの物語です。
イスラエルの王アハブに迫害された預言者エリヤが「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる」という言葉に促され、命じられたサレプタの地に逃れるところから始まっています。サレプタというのは、地理的には、ティルスから海岸線を北上し、シドンに至るほぼ中間に位置します。エリヤはそのサレプタの町の一人の女やもめのところにとどまります。女性の家に残されていた一握りの小麦粉と、僅かの油によって、エリヤと彼女、またその息子は久しく食べたが、壷の粉は尽きず、瓶の油は絶えなかったと記されています。やがてこの女性の息子が重い病にかかり息絶えるという出来事が起こります。しかしエリヤの必死の懇願によって、この息子は蘇生し、「今わたしは分りました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」という女の信仰告白が為された。 ―― かいつまんで言えば、このような物語です。
一握りの粉と僅かの油によってエリヤたちが久しく養われたこと ―― これは、今朝の聖書箇所が、前との繋がりで言うなら、ファリサイ派の人々・律法学者との論争に先立つパン五つと魚二匹による五千人の供食に、後との繋がりで言えば、七つのパンと魚による四千人の供食、イエスによるこの二つの供食の記事に挟まれていることと呼応すると言ってもよいでしょう。さらに預言者が、本来遣わされているイスラエルから出て、異邦の地で、「イスラエルの神ヤハウェは生きておられる」と告白する信仰を見出し、また小さな者の命を回復した、という主要なモチーフも共通していることに、私たちは気づかされます。
福音書記者マルコは、果たして、このエリヤの物語に暗黙の内に告げ知らされている異邦の民に対する神の救いの約束、来るべき神の国における喜びの饗宴に異邦の民も与ることができるという約束を見出したのでしょうか。マルコのこの箇所の並行箇所であるマタイ福音書一五章二一~二八節を見ると、イエスによるこの約束の成就という図式を、マタイがイエスとカナンの女との出会いを用いて確証しようとする意図が読み取れるのですが、マルコでは果たしてどうでしょうか。注目すべきは、マルコでは、この物語のすぐ後イエスは直ちにティルスを去り、ガリラヤに戻っていることです。したがって、イエス自身による宣教の道行きの中で、この出来事を特別の意味を担うものとしてマルコが位置づけていることは明らかであるように思います。
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イエス自身の宣教活動と言いましたが、イエスはそもそもこの異邦の地で宣教することに消極的であったことが分ります。それは、自分がこの地に来ていることを誰にも知られたくなかった、という二四節の言葉からも窺えます。しかし悪霊追放者としてのイエスの評判はこの地でも相当に広まっていました。そのイエスがこの地に来ている。千載一遇とはこの事でしょう。この機会を逃したらもう終りだ。必死の思いでイエスの前にひれ伏す異邦の女性。「娘から悪霊を追い出してください」。しかし、彼女の必死の懇願に対して発せられたイエスの二七節の言葉はまことに不可解であると言わざるを得ません。
「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」。
国境といういわば地理的な障壁を踏み越えたイエスが、しかしここではもっと大きな障壁を自ら設けようとしている、このことを、どう理解すればよいのでしょうか。「子供たち」とは、神の約束の子、選びの民たるイスラエルのことを指していると考えられます。神の救いは、ただひたすら神の約束の子、神の選びの民であるイスラエルにだけ妥当する、小犬である異邦人の救いなどというものは、神の計画の中には全くない。そのようにイエスに言わしめている。そこには、救いにおける順序、イスラエルの優先という視点さえ見出せない、取り付く島もない冷徹さだけがある。その足元に倒れ込み、その存在全体が祈りそのものとなった異邦の女性に対して発せられたイエスの言葉 ―― イスラエルに約束されているパン、すなわち救いをとりあげて、それを小犬である異邦人に投げてやるのはよろしくない ―― 。この言葉は、異邦の女性の信仰を試みる、ある種信仰問答的なイエスの教育的配慮から出た言葉なのだ、という解釈もあります。けれども果たしてそうでしょうか。存在全体が祈りそのものとなって必死の懇願をしている一人の人間に対する姿勢として、教育的配慮などという余裕の姿勢があってよいはずはない。このイエスの言葉は完璧な拒絶です。実際マタイ福音書では、はっきりと「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とイエスに語らせています。
「ところが」と、二八節でマルコはフェニキアの女性の言葉を続けます。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」。これは実に大変な言葉です。彼女の言葉は、完璧に思われる二七節のイエスの拒絶の空洞部分に突き刺さったのです。
彼女の言葉を敷衍するとこうなるでしょう。「主人の家で飼われている小犬も、その家の子供たちと共に生きているのです。小犬も現に養われているのです。小犬は子供たちの分まで食べてしまうことは決してしません。小犬は食卓から落ちるその一部によって養われるのです」。ここには、静かではありますが、イエスに対するこの女性の激しい詰めよりがあります。激しい迫りがあります。どのような迫りか? それは神が神たるためには、小犬がパン屑をもらうこともありうることではないか、ということです。神が神たることを開き示すことの中に、異邦人の救いということが存在する余地は全くないのであろうか。翻ってイスラエルに対する救いの約束はどうであろうか。イスラエルが選ばれたのも彼らに何か優れたところがあったからか。彼らに誇りうることが何かあったからであろうか。イスラエルはただ神のあわれみによってのみ救いに与っているのではないか。小犬も、その家の子供たちと一緒に生かされている。たとえ養いに順序があったとしても、そしてその秩序ということの中に神の意志が働いているとしても、全ては神が神たることの所以ではないか。この女性の言葉には、この神が神たること、神の主権への絶対的信頼が息づいているように思います。
イエスの言葉の不可解さは、おそらくイエス自身のもっていた内なる呻きに原因するのではないでしょうか。選びの民イスラエルにのみ排他的に救いを約束している神の意志は一体何処にあるのかをイエスは苦悶のうちに問うているのではないでしょうか。この女性の答えは、そのイエスの疼いている部分にストレートに突き刺さったように思います。イエスは、神の意志を必死で問いつつ、この異邦の女性とともに苦しまれた。神の神たることの開き示されることを、初めて足を踏み入れた異邦の地で、異邦の女性とのいわば共働の業として願い求めたのではないでしょうか。
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この異邦の女性の信仰が、またそれ故にイエスの信仰が、イスラエルの選びの歴史の特権を全く相対的なものとしました。わずか数節のこの短いエピソード ―― イエス自身による宣教の道行きの中で、この出来事を特別の意味を担うものとしてマルコが位置づけている意味は、この出来事が神の救いの歴史の大きな転換点としての役目を担っているところにあるのではないでしょうか。
したがって、この出来事に続く四千人の供食は、先行する五千人の供食とは、質的に大きな違いがあると言ってよいでしょう。それは異邦人をも含む、国境のみならず、社会的・人種的・言語的、更にはイデオロギーの境界をも踏み越えたところに成り立つ聖なる饗宴と言ってもよいでしょう。
神は神たることを、古きイスラエルそして新しいイスラエルとしての教会だけに排他的に示しておられるのではない。この世の全ての領域でその啓示の業を示し続けておられる。そのことに目を開きなさい。
「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。そしてそこで大きな信仰を見出した」。これは教会に対する、私たちに対するラディカルな挑戦の言葉です。
                                        (2008年6月22日礼拝説教)

 
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