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2009年7月26日 礼拝説教 【内なる人、日々新たなり】  笠原義久

コリント信徒への手紙Ⅱ 4章4~18節

 

 パウロは、彼に与えられている宝、即ち使徒であることと土の器としての自己自身との間にある矛盾を、またこの矛盾が「いのちの二重性」に由来することを知らされていました。  「人間は二重の存在である」という考え方は、古代以来近代に至るまでの人間理解に非常によく見られます。典型的には「からだと霊」との二元論です。「外なる人」とは端的には「からだ」 ―― 外の世界の感性、あるいは官能性によって捕えられ、それ故に苦悩と不安に支配され、滅ぶべく定められているところの人間です。これに対して「内なる人」とは「霊」 ―― 即ち、本来的な人間、精神的な人間であり、物の本質を見透し、自己規律において生活し、感性とか官能性という外的な出来事から自らを区別することのできる人間 ―― これが霊としての「内なる人」です。人間はこの「外なる人」と「内なる人」という二重性から成る存在であって、「外なる人」においては滅びるが、本来的・精神的な人間である「内なる人」は死ぬことがない。これがギリシア哲学などに典型的な人間理解と言ってよいでしょう。パウロの理解はこれとは全く異なります。パウロにとって「外なる人」とはまさしく滅びる者です。しかし単に外的な感覚性によって捉えられているというのではなく、もっと広く深く、すべての被造物にかかわるものとして、即ち「外なる人」において、私たちはすべての被造物の定め、苦悩、死に決定的にかかわっている、パウロはそのように語っています。 * * *  ドストエフスキーの『白痴』という小説の中に、イッポリートという一人の注目すべき青年が登場してきます。彼は一八歳という若さで余命二週間であることを自覚した最末期の肺結核患者です。この「余命二週間」という自覚が彼の全てを規定することになります。死への存在、これがイッポリートの存在そのものでした。彼は、死によって限界づけられた自分の生において、生を死から決定的に区別するものは何かを必死で探究しようとします。しかし衝撃的な一つの絵との出会いが、結局は死が一切を支記する最後究極的な言葉であることを彼に実感させたのです。それはハンス・ホルバインの描いたキリスト像、たったいま十字架から下ろされたばかりのキリストを描いた写実的な絵画でした。イッポリートはその時の印象を次のように語ります。「そこには自然があるのみだ。全くどんな人にもせよ、ああした苦しみの後では、あんな風になったに相違ない。この絵に描かれた自然とは、最新式の大きな機械が、無限に貴く偉大な創造物を、無意味にひっつかんでこなごなに打ち砕き、なんの感動もない鈍い表情で呑みこんでしまった。そのような感じ、これが自然の本質なのだ。この絵によって表現されているものは、一切のものを征服しつくす、暗く愚かで、傲慢な、無意味にして永久な力の観念であるらしい」。イッポリートは、このキリスト像において、死の力の、自然の力の絶対性を、キリストの復活など夢にも期待できない、一切のものを征服しつくす、暗く愚かしく、しかも傲慢な、無意味にして永久的な自然の力の勝利を確かに認めたのです。  パウロがここで語っている「外なる人」とは、イッポリートと同じく、死への存在として無意味で永久的な自然の力の支配にいや応なく屈服させられている私たちの存在のありようを意味しているのではないでしょうか。  パウロは、「私たちの外なる人は滅びる」 ―― 死の力の、即ち自然の力の絶対性を、キリストの復活など夢にも期待できない、一切のものを征服しつくす暗く愚かしく、無意味で、永久的な自然の力の支配が、自分の上にも、私たちの上にもまた確かであることを確認します。しかし直ちにこう言葉を繋ぎます。「それでもなお『内なる人』は日々新しくされていく」。 * 「内なる人」が、ギリシア哲学等でいう本来的な人間、あるいは単なる精神的な存在、あるいはまた真・善・美という永遠の価値を持つ霊的な存在を意味しないことは明らかです。 パウロが言う「内なる人」とは、キリストにあって生きる人、キリストの霊によって捉えられている人のことです。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」(Ⅱコリント5:17)。キリストによるこの新しい終末的被造物、これが「内なる人」です。パウロは、この「内なる人」は日々新しくされる、と語ります。これは、私たちの内面的なあるいは精神的な成長といったことを意味しません。また人間の本質とか霊的な深みにより深く沈潜するといったことでもありません。さらにまた、人間の内に何か胚芽のような核があって、それが実体的な大きさをもって次第に大きく成長するという事態を指すのでもありません。パウロが語っているのは、くり返し「キリストわれらの内に」ということ、聖霊の働きによって、キリストの力といのちから、常に新しいいのちを受けとること、その日毎の更新がどうしても必要不可欠なのだと言われています。  「外なる人」の滅びをとことん身に負っているパウロが、にもかかわらず「内なる人」の告白をなし得た根拠は何か。それは、14節に記されている復活信仰であったと言えるでしょう。「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、私たちは知っています」。  ところで、先程の『白痴』の中に登場する主人公ムイシュキンも、イッポリートと同じく自然の力の支配を知り、また十字架から下ろされたばかりのキリストの絵に強い衝撃を受けた一人でした。しかし彼は自然の恐ろしい意味を知るものとして、にもかかわらず、もう一つ自らの思想を最もよく象徴する一つの絵を思い描きます。それは、断頭台に引き出されたひとりの死刑囚と、彼に向って十字架を差し出す一人の牧師を配した構図から成る絵で、ムイシュキンは、十字架と死刑囚の首が絵の主眼であると語ります。死刑囚が飢えた者のように接吻する十字架、ドストエフスキーは、この十字架は、金曜日のキリストの十字架ではなく、死に勝利し復活した日曜日のキリストを象徴している、この十字架と首にムイシュキンの信仰が凝縮され告白されている、と語っています。彼は、あらゆるものの破滅のかなたに、復活のキリストを、自然支配に対するキリストの決定的な勝利をはっきりと見定めていたのです。  「内なる人」が日々新しくされるということ、それは、死に対して、自然に対して決定的に勝利し給うた復活の主に対する信仰によって生かされることです。私たちは、「外なる人」の滅びを日々経験しています。そして「外なる人」の覆いの下に隠されて「内なる人」が見えてこないのが私たちの実感するところです。不治の病、愛する者の死、神の御旨を問い、このような艱難の意味を必死に問い続けざるを得ない、艱難を艱難として受け容れることを断固として拒否せざるを得ない、もう一つの現実などとうてい見えてこない、そのような艱難・苦悩の中に置かれた人間のありようをパウロははっきりと見定めています。たとえそれが他の人からみて、どんな些細なものであったとしても、私たちは、一人ひとり、他の人が代って負い得ない重荷を背負いこんで日々労しています。死に向かう存在として「外なる人」の滅びを日々身に負っています。  このような「外なる人」の滅びの現実に対して、パウロは「内なる人」は日々新しくされるという福音を携えて、私たちに語ります。あなた方は、既に、死に対して、自然に対して、「外なる人」の滅びに対して決定的に勝利し給うた復活の主にあって生かされているのだ。キリストの霊が、日々あなたを捉えているのだ。この現実に目を開きなさい。私たちの全てを負って甦られた主は、私たちを決して見捨てることはない、「外なる人」の滅びによって、狭いところ狭いところへと自分を閉じこめ、最終的に死の中へと私たちが消滅しようとしている時にも、新しいいのちを与え、もっと広く、もっと自由なところへと私たちに手を差しのべて招いておられる。このキリストの現実に目を開き、受け容れるようパウロは私たちに語っているのではないでしょうか。 *  この復活のキリストの現実ゆえに、パウロは、17節で艱難は一時的であり軽いと語ることができたのです。私たちは、17節を16節と切り離して理解することはできないでしょう。17節を単独でとり出すならば、それは未来の栄光の為に、今の時の艱難は当然のものであるという考え方や、17節の言葉は安っぽい慰め、麻薬的な慰めとして誤解されかねないでしょう。パウロの言う永遠の重い栄光は、単に未来的なことではなく、「内なる人、日々新たなり」によって現在のうちに既に秘められ、担われ、現在の諸々の関係を、私たちの具体的な状況を変革する力として示されています。また艱難が一時的であり軽いというのは、これを私たちが過少に、あるいは中途半端な思いで理解するのではなく、艱難を相対化し、これを受け入れ、担うということであり、復活の主が共におられる故に、艱難によって絶望や意気消沈ももはやその場所を持つことはない。私たちはこのような勧めをここから聞くべきでしょう。  最後にもう一つ、パウロが語る「内なる人の更新」が私たちの具体的な状況を変革する力となると申しましたが、これは「外なる人」の滅びを身に負っている者との共存性・共にあるということの中に私たちが立たされることも含むでしょう。破れをもった、苦難と艱難の中にある隣人に眼を開かされ、慰め手として立たされることです。1章4節「わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」。「内なる人日々新たなり」、「キリストわれらの内に」、この御言葉に励まされ、それぞれのところに遣わされてまいりたいと思います。 (2009年7月26日礼拝説教)


 
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