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2009年8月16日 礼拝説教 【生ける神の子】  笠原義久

マタイによる福音書 16 1320

 

主イエスは全く唐突に、弟子たちにこう尋ねます「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」。終わりの時に到来する人の子、イエスは終わりの時についての国民的待望を十分受け入れているかのようにして問います。これに対する弟子たちの応答も至極当然の反応と言えるでしょう。

イエスの時代の暗さ。最強の大帝国の支配下にあって、政治的な抑圧状況にあったユダヤの民衆。律法を守りえない罪人として社会的にも宗教的にも常に白い目で見られていたユダヤの多くの民衆。死の陰の谷を足を引きずりつつ歩まざるを得ない存在としての暗さ。彼らの間に、人の子を待望する思いがいかに熱いものであったかを、私たちは先ず読み取るべきでしょう。

 また同時に、自分が「人の子」であることを唱える宗教家が次から次へと現れ、人々の注目を次から次へと変え、あの人こそエリアの再来、またあの人こそ預言されているメシアと騒がれていた ―― つまり宗教的には非常な混乱の時代であったと言えるでしょう。

 こうした時代的な状況を考慮すれば、そこから出てくる問いは「人々は、この私を何者と言っているか」という問いでしょう。数ある預言者・伝道者、宗教家の中で、人々はこの私のことをどう言っているか、どう評価し、どう位置づけているか、という問いでしょう。? 私はここにキリスト告白に関わる重大問題が潜んでいるように思います。端的に言えば「人々は私を何者と言っているか」という問いは、告白に関わるものではない、ということです。

 私たちはこう答えるかもしれません。「あなたのことを、歴史上の偉大な人物たちの列に加えられるべき傑出した人物だと多くの人は言っています。偉大な預言者、教師として知っています」と。しかしイエスは「人々は、この私を何者と言っているか」とは問わない。そうではなく「あなたがたは」「私を」と切り返すのです。

 ここでの中心問題は「告白」です。「告白」がどのようにしてなされるのかです。「あなたがたは」「私を」という主イエスからの問いに対して初めて「告白」が生ずるということです。イエスという存在そのものが、絶えず告白を要求する存在だということです。

 ペトロは直ちに応答します。「あなたはメシア、生ける神の子です」。ペトロ個人の告白というより、ペトロは弟子集団のスポークスパーソン(代弁者)として告白していると言うべきでしょう。この告白の言葉は、福音書の間で若干の違いがあります。マルコでは、ただ「メシアです」と言い、ルカでは「神のメシア」となっています。マタイ福音書の告白は、「生ける神の子」と言うことによって、イエスにおいて、イエスにおいてのみ神が唯一啓示されている。しかもそれは、当時の人々が待望していた人の子メシアではなく、神の子として、全く独自な道を歩いた、否、今まさに歩いている生ける神そのものだ、という告白です。いずれにしても「イエスはメシア(すなわちキリスト)」 ―― 別の言葉で言い換えられたり、別の概念で基礎づけられたり、あるいは説明や解釈というかたちにおいてではなく、ただ「告白する」という仕方においてしか表明できない真実として、福音書は記しているのです。

                   *

 この告白を受けて、ペトロに向けられた主イエスの言葉は、一言で言えば、「教会を建てる」約束です。岩の上、すなわち土台であるキリストの上に教会を建てる約束です。先ずイエスは「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ」と語ります。ペトロに代表される弟子たちのキリスト告白は、人間的な洞察に基づくものではない、出来事に対する注意深い観察によって獲得される真実ではない ―― 人間、文字どおりには「血肉」、全く無力で弱く、また常に死と滅びの手中に陥る危機に直面している存在 ―― その人間の洞察から生まれるものではない。救いについての教えを知りこれを理解する人間の知力から生ずるものではない。ただひたすら天の父の賜物である。この告白は、天の父の啓示以外の仕方でもって開き示されるものではない。それはただ天の父からの賜物、聖霊の力によって為されるのである。「誰も聖霊によらずして、イエスは主であると告白することはできない」というパウロの言葉がそのまま妥当します。

 イエスはさらに続けて語ります。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」。教会はここで驚くべき約束を受け取ります。イエスをキリスト・神の子と告白する告白共同体は、その告白するキリストという確固たる岩の上に基礎づけられ揺らぐことがないばかりか、陰府の力、すなわち血と肉としての人間を暴力的に支配している死の力も、教会に打ち勝つことは決してできないという約束です。

 約束は、同時に委託でもあります。教会は、死の力に脅かされても決して打ち負かされることはないという光栄ある約束と同時に、罪の赦しについての重大な委託を、受けているのです。

 「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。教会は一方で、罪の赦しが破棄されるところ、罪が依然としてとどめおかれているところでは、人間をその罪において罰するという委託を受けています。しかし他方で、罪の赦しが、キリストゆえの神の憐れみの約束として、告白する信仰において受け入れられるところでは、人間をその罪の赦しにおいて生かすという委託を受けています。つまり地上にあって罪を罰し・赦すという委託を受けているということです。しかしいったい教会は、その歴史の中で、この罪を罰し赦すという権能ゆえに、どれほど多くの過ちを犯してきたことでしょうか。聖霊によらず、血肉に依り頼んできた。死の力に脅かされても決して打ち負かされることはないとの約束に心底信頼してこなかった。血肉がいつも頭をもたげ、様々な決断の場面で、血肉を、人間的な肉に基づく判断を優先させてきたのではないでしょうか。

 実際また、今朝のテキストに続く22節で、たった今、主イエスから祝福され、喜ばしい約束と委託を受けたばかりのペトロが、血肉による状況判断と振舞いゆえに手厳しく諫められていることからも、教会が、そして私たちが、聖霊によるキリスト告白によってではなく、いかに血肉に動機づけられる危険が大きいかを知ることができます。

主イエスを、その全体性において、まるごと、あるがままに告白させられたい、それは私たちすべてに共通した切願です。

「あるがまま」ということは無理としても、できるだけ近い姿において、少なくとも誤った姿においてではなく、という思いがあります。キリストとして、すなわち、私たちのために十字架にかかり死者たちの中から甦り給うたイエスを、私たちの主、救い主キリストと信ずること、そしてこれらの出来事は、すべて神の御業として私たちのために起こったのだ、一切は神の憐れみによるのだ、神はキリストにおいて、その十字架と復活の出来事において、あからさまに私たちと出会っておられるのだ ―― この神の事実に打たれて、この事実を然りとすること、「イエスはキリストである」という告白の内容とはまさにこのことでしょう。また実際、これが初代教会のキリスト告白の中核をなすものです。

「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」。パウロがローマの信徒への手紙の中に整然と記し、初代教会の礼拝の中で声高に唱えられていた告白。しかしただ一点、「福音」を十字架と復活の出来事に収斂することによって、本来あった広がりや深みが、狭められたり浅くされていったことは果たしてなかったのか。

 初代教会によって告白されている十字架と復活の主キリスト ―― これが福音書記者の出発点でありまた到達点であることに変わりはありません。しかし主イエスは、その地上での歩み、その言葉と行い一切において、すでに神の子キリストであった。福音書記者は、十字架と復活に凝縮されるところの「福音」を、十字架に至るまでの生前のイエスにまで遡らせ拡げているのではないでしょうか。それがまた福音書記者のキリスト告白であったと言うことができるのではないでしょうか。

洗礼者ヨハネから洗礼を受け、独自の宣教活動 ―― 神の国、神の支配が、自分がこの地上に来たことによって、まさに始まりつつあることを宣べ伝える活動に入ったイエス。直ちに罪人とみなされていた人々、徴税人や売春婦といった人々との交わりに入っていったイエス。病める人々を癒し、こうした人々に罪の赦しを宣言したイエス。また力ある業を示し続けたイエス。このようなイエスをもキリストとする告白が、ペトロの告白には豊かに含まれていたように思います。

 ペトロのキリスト告白がなされた紀元一世紀のフィリポ・カイサリア。私たちは、この町を今の私たちの国と重ね合わせて見ることができます。異教の神、政治権力と直結した神礼拝が強要されるカイサリア。 かたちこそ違え、物が神の如く崇められ、生産性や経済性、効率性が、また画一化された能力において優れた者が価値ある者と評価される傾きをいよいよ深めているように思われるこの国。「格差社会」という構造的な社会悪をどう正していくのか、その道筋の定まらない国。

私たちは今日、私たちのフィリポ・カイサリアで、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いを、主イエスから受けています。この世界が、神の救いの御支配の中におかれていることを、大きな神の然りの中に置かれていることをキリストによって信じることを許されている教会は、主イエスをどのような方として告白するのでしょうか。

 あのペトロがそうであったように、また代々の教会がしばしばそうであったように、私たちも血肉に依り頼む者であることを、その罪責と共に御前に真実に告白しつつ、御霊を下して、どうか真のキリスト告白をさせてください ―― そのように共々に祈り求めたいのです。

2009816日礼拝説教)

 
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