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2009年10月25日 礼拝説教 【信仰にはこの世の知らない力がある】鄭顯珍 (韓国首都教会牧師)

マタイによる福音書7911

 

教会の牧師をしていて思わされることの一つですが、教会の信徒の方々が、牧師である私から恵みを受けとることがある一方で、牧師である私が信徒の皆さんから恵みを受けることもあります。今日は、そのような経験の中から一つのことをお話ししたいと思います。以前、私が牧会をしていた教会の会員の中に、珍しい病気のために苦しんでいる子どもがいました。体のどこかに傷ができると、その傷は癒えることなく、最後は死に至ってしまうという病気です。その子どものお兄さんも、この病気になって亡くなったのですが、弟の方もまた、同じ病気にかかったのです。「この子が道で転んでケガをしたらどうしよう?」と、両親はいつも気をもんでばかりいました。しかし、人が普通に生活していて、傷ひとつできないなんてことが果たしてあり得るでしょうか?その子も、とうとう、体に傷を負ってしまったのです。

その子の病状があまり思わしくないということを聞いて、私の心配も並大抵のことではありませんでした。朝起きて祈りを捧げるとき、自分でも知らないうちに、「神様、どうかこの子を癒してください。あなたはどうあっても癒してくださらないといけません」という祈りが口をついて出てきました。また、夜床につく前、祈りを捧げるときも、知らず知らずのうちに、「神様、この子をどんなことがあっても癒してください」と自然に祈っていました。教会全体も、このことのために熱心に祈りました。私は、「神はこの祈りを必ず聞き届けてくださる」と信じていました。朝であろうと夜であろうと、神にすがり付くようにして祈りを捧げました。

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けれども、ある日、神様はとうとうその子を天に召されました。良き牧者であるイエス・キリスト、私たちの弱さをすべて経験され、大祭司となられたその方に、あれほど「助けてください」と請い願ったにも拘わらず、神様はその子を天に召されたのです。私は、自分の重苦しく、また息苦しい気持ちをどうすることもできませんでした。「神様、あなたはどうしてこのようなことをなさるのですか?私はこれから先、どうやって牧師をしてゆけばよいのでしょうか? あんなにも切に祈ったのですから、たとえ不治の病だったとしても、あなたは私の祈りを聞いてくださらなければならないのではないですか?」私の心は刺すように痛みました。

?ところが、神様は、その両親を通して、私に慰めを与えてくださいました。教会の人々は皆、泣きながら葬りの礼拝を捧げました。しかしその子の両親は意外なほど落ち着いていました。後から聞いたことですが、亡くなった子どもの両親と残ったもう一人の子どもの三人は次のように話し合っていたということです。「ダビデを見倣おう。ダビデは、自分の幼子が病を患い死にかけたとき、もしかしたら神様は病を癒してくださるかもしれないと、断食をし、また眠りもせず、ひたすら神様にすがっていたのではないか?しかし、その子が亡くなるとすぐに、ダビデは立ち上がって、体を洗い、服を着替え、神様に礼拝を捧げた後、食事を用意させこれを食べたとあるではないか。私たちもそのようにしよう。神様があの子を連れて行かれたのだ。新しい天と新しい地をあの子に下さったのだ」。そのように話し合ったということです。そしてこの家族は、実際ダビデがそうしたと同じように行動したのです。

?大切なことがもう一つあります。それはこの家族が、何年か前、別の教会に通っていたときのことです。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」という、マタイによる福音書七章九~一一節について、ある牧師の説教を、彼らは聞いたことがありました。彼らは、その苦痛に満ちた瞬間に伝えられた神の御言葉を忘れずに覚えていました。その時、その牧師は、「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」という言葉を説明してこう言いました。「わたしたちが、神に切に祈り求めた後に、私たちに与えられた物はすべてパンです。私たちの目には石のように見えたとしても、決して石ではありません。私にとって良くない物と考えられるものも、後には、すべてがいっしょになって良い物となるのです。ですから、切なる祈りを捧げ信じた後に訪れる結果について、私たちは、それがどんなものであっても、その結果を『石』としてではなく『パン』として受けとめなくてはいけません」と、説教しました。ふつう人は、このような御言葉を覚えてはいても、試練や苦難に直面すると忘れてしまいがちです。しかし彼らは、愛する子どもを病気で失った正にその時に、この御言葉を思い出したのです。そして、互いに信仰によって慰め合いました。「私たちの子どもが死んだのは、私たちの目には『石』である。しかし、実際には『石』ではなく神様の下さった『パン』である」。この言葉を聞いて、私は、どれほど感謝したか分かりません。神さまは、時に適って、神様のやり方で良いものを与えてくださると信じる彼らは、それがたとえ胸を引き裂くような悲しみであったとしても、これはパンである、神様がくださる最高のプレゼントであると受けとめたのです。このような信仰こそがこの世に打ち勝ち、サタンに打ち勝つようにしてくれるのです。このような信仰によって生きる人には、この世が知ることのできない智恵と力があるのです。

愛する兄弟姉妹方、あなたがたの内に恐れがありますか? 胸が重苦しく、痛みを感じる時がありますか? 長い間、祈り続けているのに、応えてはもらえない祈りがありますか? 将来に対する不安がありますか? 私たちが祈り願い続けている問題に解決が与えられるということ、このことが祝福ではありません。生きること、老いること、病んで死んでいくこと、私たちの抱えている問題の本当の解決は、私たちがこの世を離れて神の胸に抱かれ永遠の命を得るときに完全に与えられるのです。それが本当の祝福です。私たちに与えられる祝福とは、このような問題が解決するところにあるのではなくて、むしろ与えられた問題に対して信仰的に創造的に肯定的に応えていく、そのような力を与えられることにあるのです。

どのような問題が私たちの前に立ち現れようとも、良き牧者、最も完全な大祭司であられるイエス・キリストが今日も恵みの座から私たちを見守っていてくださるという事実をしっかりと信じること、与えられた問題に信仰をもって向かい合い、創造的に応えていくこと、それが信仰者に与えられた祝福なのです。このような祝福は、この世が知らない祝福であり、このような祝福から湧き出る力はこの世が知らない力です。私たちはこれを信仰の力と呼ぶことができるでしょう。私たちをそのような道へと導く道であり、真理であり、命である、イエス・キリストが、今日も私たちと共にいらっしゃるのです。

どうか問題が起こるごとに、痛みを感じるごとに、イエス様を見上げてください。そして、救い主であるイエス様をより一層、固く信じてください。そうすれば、神様に向かって大胆に歩んでいくことができます。問題に対して力強く立ち向かう力が与えられます。私たちの努力が決して空しくなることはないのです。この世が私たちのことを知らなくても、私たちは決して独りではありません。たとえ、この世の人たちの目には、どのようにみすぼらしく見えようとも、信仰において生きる私たちは天においては星のように輝く栄光に満ちた人間なのです。この事実をしっかりと信じ、天国で永遠の命をいただき、天に備えられている報いを受ける、そのような皆様となられることを、父・子・聖霊の名によって祈り願います。

20091025日礼拝説教)(チョン) (ヒョン)(ジン)


 
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