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2010年2月7日 礼拝説教 【聖なる命の中へ】  稲垣千世

 哀歌3三章5557マタイによる福音書41822

 私たち人間の一番素朴な問い、そして、一番難しい問い。それ は「何故生きるのか」という問いであるように思います。この世に生まれ生きることのその意味を、「一体何のために」と問わずにはいられないこの世の不条理 の現実。私たちはこの世の不条理の現実の只中に生を受け、その中を生きる者とされています。一体、何を頼りに、どのように生きたらよいのでしょうか。

 私たちが生きているこの世界は矛盾に満ちています。決して道 理に適った世界ではありません。不条理な世界です。災害に見舞われれば多くの人々の命が奪われていきます。私たち人間は繰り返し戦争を行って来ました。自 分たちの手で悲惨な現実をつくり出しています。社会に目を向ければ、現代の日本においても、富める者と貧しい者との差が拡がり、貧しい者は社会の一員とし て生活する権利すら奪われている状況です。この世界を見る限りにおいて、そこに展開されている現実は弱肉強食の力が支配する世界である、と認めざるを得な いでしょう。そして、その中で生きる人間には、より強くなって権力を持ち、弱い者の主体性を奪ってこれを抑圧し、支配者となって生きようとする傾向と、自 らの主体性を捨てて、奴隷的に権力に膝を屈めて生きようとする傾向があるように思えます。

 自由であるべき人間が自立しながら助け合って生きるという非 権力的で平和な社会を形成する生き方は、この世界のどこに存在するのでしょうか。この世の絶望的な状況の中にありながら、それでもなお、諦めずに希望を 持って生きることが出来る人々とは、どのように生きる人々なのでしょうか。この不条理の力が支配する世界の中で、この力に呑み込まれず、この力の支配から抜け出して、自立し、互 いに主体的な社会の形成を目指して歩む道とはどのような道なのでしょうか。

 神の民イスラエルは神の救いの業によってこの世に現れました。神はエジプトの王ファラオの 奴隷であった御自分の民を救い出されました。神に救い出され、神に導かれて、神と共に歩むイスラエルの民の歴史は、神の救いの業の歴史でもあります。この 世の不条理の現実の中にあって、神の民イスラエルが生き続けるために必要なことは、御自分の民であるイスラエルを必ず神は救って下さる、と救いの神に信頼 することでした。神から離れず信仰によって生きるならば、必ず神御自身が救って下さるというのが神の民イスラエルの信仰でした。神の民イスラエルの信仰の 歴史が旧約聖書の歴史であると言えます。

 神の救いの成就の時を待ち望む神の民イスラエルのその歴史の中で、哀歌は、最も神に向かっ て、この世において神の民として生きることのその苦難の意味を心の底から問い、その救いを待ち望んでいる書物です。

 紀元前六世紀に、新バビロニア帝国の王ネブカトネツァルに率いられた軍勢は、約一年半にも わたってユダ王国の都エルサレムを包囲した後、城壁を破って侵入しました。神殿、王宮、民家に火が放たれ、エルサレムは徹底的に破壊し尽くされました。哀 歌はこのエルサレム落城における目を背けたくなる程の凄惨な現実と体験を背景にして読まれた歌です。「何故」と問わずにはいられなかった神の民イスラエル の、心の底からの神への問いかけに満ちています。

 今、この私は、死がもはや避けられないような悲惨な状況の中で、しかし、それにもかかわら ず、御自分の民を必ず救い出す神に信頼し、その主なる神に呼び掛けています。自分の生きる力は絶えたとしても、ただ主に信頼し主を待ち望む信仰は絶えませ ん。この一途な信仰の中に一縷の希望の光が見えてきます。この世での人間の生死を超えた永遠なる神の救いの業の成就の時の訪れが待ち望まれています。「深 い穴の底」とは、水を溜めるために掘られた深い穴のことです。水が枯れると、この穴は監獄として使われました。預言者エレミアはこの穴に投げ込まれまし た。底には泥が溜まり、投げ込まれた者は泥の中に沈み、穴から引き上げてもらえなければ、死を待つだけの身です。このような死が避けられない状況の中に あって、死を待つのではなく主を待ち望む、とこの私は主を呼び求めています。「呼び求める私に近づき、恐れるなと言ってください」と求めています。この世 の不条理な死の恐怖とその苦しみの中にあっても、主が共にいて下さり、主が導いて下さっている主の平安の中に、自分の命があることを願っています。そし て、「主よ、生死にかかわるこの争いを私に代わって争い、命を贖ってください」と主の救いの成就の時の訪れを信じ、一途に待ち望んでいます。

 神の救いの歴史が神の民イスラエルの歴史です。そして、旧約聖書の神の民イスラエルの歴史 は、今、神の救いの歴史の成就の時を待ち望んでいます。神の民イスラエルの命が贖われる時を待ち望んでいます。そして、その時が主イエス・キリストの訪れ の時です。神の救いの歴史の到達点にイエスの生と死、そして、復活があります。主イエス・キリストの十字架が立っています。

 この不条理の現実の中で、一体何のために生まれ、何のために生き、何のために死ぬのか、と 私たちが神に問うならば、イエスの生と死において、私たち自身がこの世において生きる根拠を見出せるかどうか、と聖書を通して、神が今、私たちに問うてい ます。

 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って主が私たちのところに来られました。この世の力 の支配の中に救いの神の支配の実現が開始されました。主の十字架を通して神の救いが実現していると信じる時、私たちは最も深い徹底した姿で、自分たちの罪 を知ることが出来ます。十字架による贖いを信じることによって、最も深い徹底した姿で自分たちの罪を知ることが出来るということは、十字架において私たち の罪が赦されている、ということを知ることが出来るということです。このことが私たちをこの世の支配の中から神の支配の中へと救い出します。神の国は近づ いたというこの福音こそが、私たちに本当の悔い改めを、つまり、私たちが神の支配の下に喜んで立ち帰って生きることを可能にしてくれます。感謝と喜びの中 で、神の力だけに信頼して生きることが出来るようにされます。

 私たちを死の恐れから解放する十字架と復活の主は「わたしについて来なさい」と御自分の後 に従って生きる者を呼び出していきます。主の十字架の道のみが聖なる神の支配がこの世に現れる唯一の道です。主は、今、悔い改めて、喜んで神の愛の支配の 中に生きる者を捜し求めています。主の後に従って生きる神の愛の民を選ばれています。

 ところで、イエスは神から一体何を与えられたのでしょうか。人間を与えられました。愛する 相手を与えられました。イエスの生涯の目的は神の民を選ぶこと、つまり、神がイエスに与えた人々をイエスが御自分の命をかけて愛することでした。愛し抜い て生かすことでした。相手を愛して生かすことを、イエスは無上の喜びとされました。神がイエスに対してしたことと同じことを、今度はイエスが御自分の弟子 たちになさいます。「人間をとる漁師にしよう」と言われました。弟子たちにも自分の命をかけて愛する人間を与えました。

 私たち人間の一番深い喜びとは何でしょうか。それは、神の前に立ち、悔い改めて、正しく愛 することの出来る人を求めて生きることの中にあるのではないでしょうか。そのように生きる人とは、喜びをもって赦しの言葉を告げることが出来る人のことで はないでしょうか。互いに赦しの言葉を告げ合い、交わりが為される時、その時、それまでの古い人間関係から救い出され、自由になって、新しい人間関係の中 に生きる者とされるのではないでしょうか。このように私たちが古い関係に死んで、新しい関係に生きることが出来るようにされているのは、主の十字架の贖い の故にです。主イエスは神の人、愛の人でした。そして、御自分の弟子たちにも同じように愛し抜いて生かす人々を与えました。神の愛に生きる深い喜びを与え ました。

 悔い改めて、神の前に正しく愛し合う人になるということは、この世の人間関係を絶対的な関 係とせずに、神の前に一度相対化することだと言えます。「舟と父親とを残してイエスに従った」と記されてありますが、文字通りに父を捨て去ったということ ではありません。父も神の前で同じ神の子として兄弟になればよいのです。私たち一人ひとりが神の子であるという新しい関係に立って、古い人間関係から解放 されて、新しい人間関係に生きることが出来るようにされているのです。今、主が私たちの前に立ち、「私について来なさい」と新しい人間関係に招いていま す。

 待ち望まれてきた神の民イスラエルの救いは、主イエス・キリストの生と死、そして、復活を 通して成し遂げられています。今、その福音が主と共に訪れています。苦難の中にあって、ひたすら主の名を呼び、ただ主の救いを待ち望む神の民のところに主 が近づかれ、「私について来なさい」と呼び掛け、聖なる十字架の救いの道の中へ招き入れられています。主の十字架の死に至る道は、死を超えて神の永遠の命 に復活していく道です。

 この世における私たちの生においても、また死においても、主が私たちを愛することを通し て、主が私たちと共にいて下さり、聖なる永遠の命の中へ導いて下さっています。私たちの苦難を共に担って下さり、私たちの命を贖い、救い出して下さってい ます。ただ一途にこの主の愛に信頼し、主の愛から離れず、主の愛に導かれて主の道を歩むならば、私たちは死んでも神の国に生きる者となります。死が私たち を主から引き離すことは出来ません。この福音を信じて生きることが出来ることが、私たちに与えられた神からの恵みです。この世の不条理の現実の中で、人生 に意義を見出せず、絶望的な状況の中で苦しむ時こそ、この不条理の現実の中を貫いて、揺らぐことなく固く立つ、神の愛の熱情の十字架を、限りない感謝と喜 びをもって仰ぎ見る者でありたい、と願います。死によってこの世での生を終えるこの私たちの命の、そのすべての時が、決して見捨てられることなく、贖わ れ、聖なる神の永遠の命の中へ救い出されているということを、主イエス・キリストの十字架の故に信じて生きることが出来る恵みを、心から喜び感謝していま す。

201027日礼拝説教)

 
 
 
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