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 2010年4月18日 礼拝説教 【無から有へと呼び出す復活の主】 笠原義久

  ヨハネによる福音書20章11~18節

 イエスの生涯の始めと終わりにおいて、福音書の物語の中で前面に現われ積極的な働きをするのは概して女性たちです。特に十字架と復活の物語においては、ユダの躓き、ペトロの裏切り、そしてイエスの逮捕と同時に散り散りになった弟子たちに対し、女性たちの姿は非常に対照的です。彼女たちはイエス処刑の現場にとどまり、イエスの最期を見守っていました。その遺体が墓に納められるのを目撃し、さらに安息日明けには最期的な葬りの手続きをするところまでイエスに同伴したのです。
福音書のこれら記述の全ては、マグダラのマリアの名前を最初に挙げていることに注目したいと思います。しかも復活のイエスと直接出会ったのは、今朝の聖書箇所が示しているように、このマグダラのマリアただ一人だけです。まさに彼女こそが、主イエス復活の最初の証人とされています。

ところで、新約聖書に登場する女性たちの中で、このマグダラのマリアほどよく知られている女性は、イエスの母マリアを除いて他にいないでしょう。しかし、マグダラのマリアほど、誤解され、また誤って利用されてきた女性も他に例がありません。教会の歴史の中で、「罪を悔い改めた売春婦」というレッテルが貼られ続けられてきました。
一つには「マグダラ」という彼女の出身の町とかかわりがあります。マグダラは漁業と商業が盛んで、人の出入りの激しい豊かな町だったと言われます。彼女には、男性の親類や夫あるいは息子がおらず、ずっと独身であったか、離婚したか、いずれにしても家族との絆を確かにするものがないので、出身地を名前に冠したのかもしれません。マグダラの町の商業的繁栄が、彼女の生業を売春と結びつけたのかもしれません。
ルカによれば、彼女はイエスと弟子たちの集団を経済的に支えるために、自分の所有していた財産を使った女性たちの一人でもあったようです。しかしそれ以上のことは、彼女の出身地がマグダラであったこと以外、聖書は何も明らかにしていません。
第二には、福音書記者ルカが記しているように、彼女が「七つの悪霊を追い出していただいた」女ということとかかわりがあります。ヒエロニムスという古代の学者は、「… 罪の充満するところに恵みがますます溢れるようになるために、七つの悪霊を追い払った」と解釈しました。そして彼女の場合、罪は道徳的・性的であり、売春をする淫乱と結びつけられました。ごく最近までこの解釈が支配的でした。しかし聖書の中で、悪霊につかれることが直ちに罪と結びつく、まして性的・道徳的な罪と結びつくとされている例はありません。

 それでは、マグダラのマリアが七つの悪霊に取りつかれていたという記述を私たちはどう理解すればよいのでしょうか。「悪霊」というものの働きを今日的に言い替えれば、「人間を非人間化する力の総体」というふうに言えるかもしれません。そしてイエスの宣教の活動の中で、この「悪霊」に取りつかれた人の癒しが極めて重要な部分であったことは明らかです。またイエスは弟子たちを遣わすにあたって、「悪霊」につかれた人を癒すように命じています。
悪霊につかれた人を癒すとは、社会構造的な関係を含めたさまざまな関係の中で傷つき、いわば「関係障がい」に落とし込まれた病める人の癒しであって、倫理問題つまり道徳的・性的な罪の問題とは直接の関係があるわけではありません。この「関係障がい」は、自己を傷つけ他者を拒否する「非人間化」をもたらしますが、自己をも他者をも超える存在、それを神と言ってよいでしょうが、そのような存在を心から受け容れることによって、自分自身との関係、また他者との関係も回復することができる ―― いわゆる「人間化」を回復することができると言えるでしょう。
マグダラのマリアの場合、その多様な非人間化の要因に囲まれていた、想像を絶する悲劇的状況が背景にあったと思われます。ですからマリアがイエスに癒され悪霊から解放されたとき、そこには無条件的なイエスの受け容れということがあったに違いないのです。そのことによって彼女は神と自分の交わり、自己と自己との交わり、自己と他者との交わりに生きるものとされ、イエスへの服従と奉仕が彼女の人生の全てとなったと言えるのではないか、そのように思います。


さて福音書記者マルコは、大勢の女性たちが「イエスに従い、仕え続けてきた」と述べています。実際、イエスの伝道の一番始めの頃、シモンの義理の母が病を癒され、イエスや弟子たちに「仕え続けた」とありますが、このことは、ここに女性弟子第一号が誕生したことを物語っています。「従うこと」と「仕える」こととは弟子であることの本質を示しています。さまざまな病を癒された女性たちが、イエスの伝道の途上でイエスに従い、仕えるようになったということは、彼女たちがイエスの弟子として働いていたことを端的に物語っていると言えるでしょう。
そして、このような女性たちのリーダー的存在としてマグダラのマリアは活動していたのです。イエスのへの服従と奉仕 ― すなわちイエスの弟子としての伝道、これがマリアの人生の一切であったと言ってよいでしょう。
そのマリアからイエスが突然取り去られました。イエスは十字架で殺害されただけでなく、その遺体までも「取り去られた」ことにマリアの悲しみは倍加されました。せめて遺体への最後的な手当てをしたいと願っていたマリアにとって、それは覚悟してきたイエスとの別離の機会さえも失われたことを意味します。あまりにも深い喪失感によってマリアはただ「泣き続ける」他ありませんでした。
しかしそのマリアの背後に主が近づいておられた。自らの生の痛みと傷、苦悩と呻きの全てを受け容れ彼女を贖ってくれたイエスを失い、生きる見通しもつかないマリアの背後に復活の主が迫り給う。墓穴に向かって嘆き続けるマリアに「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と天使の言葉に重ねて主は呼びかけ給う。声の主を「園丁」だと思い、墓穴に向かい泣き続ける女に、主は「マリアム」と彼女の名を呼びます(「マリアム」は「マリア」のアラム語)。「なぜいつまでも墓穴に向かっているのか、どうして自分を死者の中に捜すのか」。自分の名前を呼ぶ、あの生きていた時のイエスの肉声。人生において絶望の「墓穴」に向かわされ、失意の厚い壁に立ち塞がれる時、主は背後から招かれます。「悔い改めよ」(すなわち、「方向を転じなさい」)と。「わたしがいるではないか」「わたしはあなたの名を呼んだ。あなたが私を知らなくても、わたしはあなたに名を与えた。 …あなたが知らなくても、わたしはあなたを強くする」と。
私たちが人生において絶望と失意の墓穴に向かわされること、それは根本的には、私たちが「悲しみの存在」であるということでしょう。私たちの人生は、生きること自体が苦しみに伴われた人生であり、その苦しみの中で迷い、闘い、努力する他ないというのが私たちの現実の姿です。しかし、どんなに迷い、闘い、努力してみても、なおどうにもならない事態を抱え込んでいることも、私たちはよく承知しています。悲しみはまさにここにあります。悲しみは人生の苦しみの中に、否、むしろ、苦しみを突き抜けたところにあります。苦しみの段階では、なおそれに対抗し克服しようとする意志を持ち、努力することも可能です。しかし、もはや手の施しようのない、ただ泣く他ない、そのような事態を抱え込んでいる全く無力な存在に向かって、復活の主は、その名を呼び給うのです。

「羊はその声を聞き分ける」。マリアは「振り向いた」 ―― 墓穴に向かっていたマリアが向きを転じたのです。人生の方向を転じたのです。そしていつもいつもそのように呼んでいた主イエスへの呼びかけを取り戻し、「ラボニ」(わたしの主、先生)と応えます。この「マリアム」と「ラボニ」との出会いの中にこそ主の復活があります。「マリアム」という主の言葉は、墓穴に向かっていた、すなわち絶望と虚無の淵に沈むマリアを、無から有へと呼び出したのです。主イエスとマリアとの、一対一の出会いと、この呼びかけ合い(呼応)こそ復活の現実です。活ける主の呼びかけに応え、自ら復活の現実にあずかる者とされずして、どうして復活について語ることができるでしょうか。「泣き続ける」マリアがその涙をぬぐうとき、それはこの復活のイエスの言葉との出会いであり、それが彼女の復活そのものに他ならないと言えるのではないでしょうか。
ヨハネによる福音書一四章一九節、「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」と語られたお方が、私たちに伴ってくださいます。そして、私たちに、教会に、またこの時代に、なぜ泣くのか、もう泣かなくてよい、と語ってくださいます。この主の語りかけを聞いた者は、与えられたいのちと賜物を活かして生きることができる、終わりのときを見据えた生を生きることができる。それが復活のいのちに生きることではないでしょうか。
(2010年4月18日礼拝説教)

 
 
 
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