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 2010年 5月30日 礼拝説教 【泣かなくてよい】  笠原 義久

申命記6415 /ヨハネによる福音書31621節 

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ31617)。

 神が愛であるということ、神が愛以外の何者でもないということを、ヨハネによる福音書の著者はここに高らかに宣言しています。

神は常に世を愛し、また、愛し続けるが故に神であり、まさに今も、世を救わんとして、世を愛しておられるということを告げています。それは、神が愛することにおいて、この世で死んで滅び去る者として、この世にある私たち人間を棄てて顧みない神ではなく、まさに愛することにおいて、神は私たちを一人残らず、新しく永遠の命に生きる者へと生まれ変わらせるために、この世の死の力の支配から解放し、神御自身の命の力の支配の中へ救い出そうとされている神であるということを自己啓示されていることに他なりません。神は世を、今も永遠に、至上の愛の喜びの宴の交わりの中へ招いているのです。

 愛である神は、御子イエス・キリストをこの世に遣わし、御子イエス・キリストを通して、御自身が愛であるということ、救済の神であるということを、私たちに現されました。御子イエス・キリストの訪れは、神の愛の訪れです。そして、神の愛の訪れは命の訪れです。神の独り子の訪れ、この神の永遠の命の訪れは、命の力の支配の始まりであり、それは同時に、この世の死の力の支配の終わりをもたらしています。

 命は人間を照らす光です。この命の光はまことの光で、世に来てすべての人を照らします。まことの光はこの世の闇の中で輝いています。しかし、この世の闇はまことの光を理解しませんでした。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ」という言葉が記されてあります。

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛されているのに、何故、世は、これほどまでに神に愛されているという現実を受け入れて生きることを、頑なに拒否するのでしょうか。何故、世は光よりも闇の方を好むのでしょうか。何故、世は、真実に生きることを求めていながら、死の力の支配の中に留まり続けるのでしょうか。

 そもそも、世とは、どのようなものなのでしょうか。世は、神によって創り出されたものです。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」という言葉が、ヨハネによる福音書の13節に記されてあります。世とは、神によって創り出されたもの、すべてです。

 また、人が生まれれば、人は世に来ます。そして、人が死ねば、人は世を去ります。世とは、その内に人間が留まるところのもの、時間と空間の世界です。世は、人間の世であると同時に、世にある人間であり、世と人間とは切り離して考えることは出来ません。

 世は、救いが現れ、示される場所であると同時に、救いの出来事の歴史それ自体でもあります。そして、何よりも、世は、神が愛して止まない相手なのです。

 さて、世にある人間は、どのようなあり方で、世にあるのでしょうか。しかも、常に神の救いを必要としている、というあり方で。

 世は光よりも闇の方を好みました。まことの光である神の命の力よりも、この世の力を光としました。人間がこの世の力を光と見なすことによって、この世の力は人間の上にその力を及ぼすものとなりました。人間の命を規定し、支配するものとなりました。世は、権力者としてその姿を現して来ます。偽りの光を輝かせ、まことの光を見えなくし、この世の限界を見せつけ、死への恐怖で世にある人間を支配する力を増し加えます。このようにして、世は、世自身がイエス・キリストを拒否することによって、人間の自由を拘束する権力を保ちます。

 世は自分で自分を支配する権力を持ちますが、しかし、自分で自分を助け救う力は持ちません。だから、世はこの限界を持つ自分の権力の支配から救い出されることを必要としているのです。

 世は神の救いを待ち望み、神は御自身の愛を貫徹されます。神の愛は世の支配からの救いであると同時に、世の支配への裁きでもあります。神は常に世を愛し、救わんとしておられるということ。たとえ、神の愛に対して世が拒否しても、神は神を拒否する世を、変わることなく、この世の支配から自由とする愛の対象としているということ。このことこそが、イエス・キリストの十字架上の死と復活を通して、世に現された神の愛であり、神が世を愛し救う出来事です。この死と復活の出来事は、この世を死の力の支配から解放する出来事であり、それは同時に、この世の死の力の支配の敗北の出来事です。神の愛の勝利がこの世に打ち立てられている現実が十字架の出来事です。ここに神の愛の主権が確立しています。そして、十字架と復活の主による命の恵みの中に留まり、その命の恵みに新たに生かされて生きる者は、神の愛に生かされて神の国に生きる者となります。

 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、私の掟を守るなら、私の愛にとどまっていることになる」(15910)。互いに愛し合うこと。これが主の掟であり、主の命令です。

 しかし、私たち世にある人間が神の愛に信頼し、神の愛にとどまり、神の愛に生かされて生きるということは、自分の力で成し遂げられることではありません。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行ってる」(ローマ719)と、告白したパウロの呻き。しかし、それと同時に「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(ローマ72425)と、神の愛の支配の中に置かれている感謝と喜びの告白。神の自己啓示に応答するこのパウロの自己表現は、神に愛されている世の姿そのものでもあります。

 たとえ、世にある私たち人間の愛がどんなに貧弱なものであるとしても、そのような私たち人間を愛し、救わんとされている神の熱愛の中で「よし」とされているのだと信じる信仰に導かれて愛に生きる時、自分の弱さ、小ささの告白は、自己弁護のための言葉ではありません。こんな小さな自分をも愛して生かす、神の強さ、確かさの告白の言葉です。それは感謝の言葉であり、喜びの言葉であり、神を賛美する言葉です。

 ところで、世の一体何が、世にある私たち人間を、神の愛から引き離そうとする力を持っているのでしょうか。私たちに神の熱情の愛を忘れさせていくもの――。それは神の愛の実りの豊かさ、神が創造されているこの世の豊かさにある、ということを申命記は繰り返し教えています。

 神の熱情の愛は、何よりもまず、イスラエルの民をエジプトの支配の中から救い出しました。そして、「乳と蜜の流れる土地」つまり、カナンの豊かな土地へ導き入れました。その時、神は御自分の民に戒めを与えます。

 「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記64)。

 カナンの地は肥沃な土地でした。カナンの地の豊かさに満足して、高慢になり、主を忘れることがないようにと、繰り返し命じています。

 しかし、神の熱情の愛によってエジプトから救い出し、御自分の「ひとみ」のように守られたイスラエルは傲慢になりました。「お前は肥え太ると、かたくなになり、造り主なる神を捨て、救いの岩を侮った」と、申命記3215節に記されてあります。イスラエルの民の高ぶった自己満足が指摘されています。

 人間の罪――人間を神から引き離していくものは、豊かさの中で、自己過信として現れて来ます。これは豊かな社会に特有の誘惑です。だからこそ、「主を忘れるな」「主を思い起こしなさい」と繰り返される戒めの言葉が命の言葉になるのです。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記83)の言葉の意味は、飽食の世の中でこそ明らかになります。「あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民である」(申命記九・六)。ただ、神の熱情の愛の故に、豊かな恵みの贈り物が世に与えられているのです。

 世の傲慢さ、頑なさにもかかわらず、光よりも闇を好む世であるにもかかわらず、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と、ヨハネによる福音書は告げています。ここにこそ、世の望みがあります。世がどのようであろうとも、世は世を超えた神の愛によって創造されている世界であり、それは同時に、神の愛による救いが明らかになっていく時間と空間の世界です。神の独り子イエス・キリストの十字架と復活の出来事を通して、世の救いが、神の熱情の愛によって成し遂げられていく世界です。世にある人間である私たちはこの神の大きな愛の中にあり、無条件に世から救い出されている者たちであるということを信じて生きることが出来る恵みに与っている者たちです。

 神の熱情の愛に救われ、生かされる私たちは、この神の愛に応えて、愛に生きる者となります。「愛し合いなさい」という神の永遠の命の命令に応えて、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、愛に生きる者となることを祈り求めつつ、生きる者となります。死も滅びも、キリストの故に、もはや終わりではありません。何故なら、キリストの十字架と復活の故に、死からの救い、滅びからの救いが成し遂げられているからです。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。

 この永遠の命の言葉の世界の現実の中に立ち返りましょう。立ち返り、この命の言葉の力に生かされて、再び、新しく生きましょう。

    (2010530日礼拝説教)

 

 
 
 
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