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 2010年10月3日 礼拝説教 【清くなれ 喜びへの招き 】 稲垣千世

イザヤ書25610/マタイによる福音書22114

 ろばに乗ってエルサレムに入られたイエスが神の家であるエルサレムの神殿を清められました。そして、そこで行われたイエスの不思議な癒しによって、障害を抱え込んで生きている人々が神のところへ行けるようになりました。その時、この世の知識や権威を持つ者はイエスの行為に腹を立て、イエスを亡き者にすることによって自分の利益を守ろうとするこの世の有り様が、イエス御自身の口からたとえ話を通して語られています。

 イエスが神殿の境内に入り教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て、イエスの権威について尋ねました。しかし、逆に、洗礼者ヨハネの声を真剣に聞くことをしなかった者がイエスの権威について論じることに意味はない、とイエスに切り返されてしまいました。

 ここで行われた権威を巡っての論争で、イエスは質問者の問いに答えることを逃げているのではなく、ヨハネについて逆に問いかけることによって、彼らに真の権威について教えているのです。イエスは彼らの問いには直接答えませんでした。しかし、イエスの生涯が、イエスの権威は神からのものであることを実証しています。このイエスの権威を巡る論争は、イエスが語られるたとえ話を通してさらに続いていきます。「ところであなたたちはどう思うか」とイエスの方からたとえ話を通して問いかけられています。今日の聖書の箇所はその第3番目のたとえです。洗礼者ヨハネに対する彼らの態度はそのまま、その後にやって来たイエスに対する態度と一つであることがわかります。洗礼者ヨハネを信じなかった彼らはイエスを信じることができませんでした。

 さて、このたとえでは神の招きがテーマになっています。神に招かれている人々は神の招きに応じるのでしょうか。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」とイエスは言われました。神は王にたとえられ、王子は神の独り子であるイエスを表しています。2回、王から遣わされていった客を招く家来たちは、最初は預言者たち、次はキリスト教の伝道者たちを指すと考えられます。3節で、イエスは「来ようとしなかった」と言われました。この婚宴への招きはイエスによる福音の知らせに他なりません。最初に王の家来たちに招かれた人々は来ようとしなかった、とイエスはここでユダヤ人の指導者たちに向かって言っているのです。神はメシアを遣わし御自分の民イスラエルを救われる、という神の約束の言葉は預言者たちによってイスラエルの人々に語られ続けていました。神が御自分の民を救われるその出来事は、まさに招く神と招かれる神の民との祝宴である、と預言者イザヤは言っています(イザヤ書25610節)。待ち望んでいた主の救いを祝って、私たちが喜び踊るその日(イザヤ書259節)、その日は、今、イエスの訪れと共にやって来ている、と洗礼者ヨハネが言っています(マタイ3章参照)。

 預言者を通して神の救いにまず招かれていた相応しい人々、ユダヤ人の人々には十分に準備がされていました。しかし、この人々は神の招きに応じませんでした。「人々はそれを無視し・・・」とイエスはたとえ話を続けます。何故、神の招きに応じないのでしょうか。神の招き、イエス・キリストの十字架と復活の福音は絶対に代価を要求しないからです。全く無償の神の行為だからです。だから私たちは値なしに神からの恵みを頂くのです。値なしに罪の赦しを頂くのです。それがどんなに喜ばしい大きなことであるか、到底、私たち人間の言葉では言い尽くすことはできません。神に招かれているということはこの世のどんなものにも置き換えることはできません。イエス・キリスト、神の独り子の死の中に私たちの罪のすべてが一つ残らず片付けられています。しかし、それにもかかわらず、人々は、私たち自身も含めて、福音にどのように対応しているでしょうか。「一人は畑に、一人は商売に」とイエスが言われたように、この世のつとめに出て行き、神の招きに応じようとしません。素晴らしい恵みが与えられているのに、世の中に出て行って、この素晴らしい恵みを受けようとしません。私たちがこの世のものに惹かれる傾向が如何に強いかということがよくわかります。福音よりもこの世の方に心が動いているのです。

 私たち人間には十字架の救いが一体どれだけのものなのか、よく分かりません。ただ、素直に受ければよい、ということがなかなかわかりません。わからないから、神の招きに応じようとしないのです。応じないだけではなく「王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった」とイエスは言われます。イエスの十字架の死を暗示しています。何故、イエスを殺したのでしょうか。イエスを殺した人たちは自分のことが大事でした。自分の信仰が大事で、その自分の信仰に執着している人はイエスの愛に腹を立てるのです。全く代価を要求しない愛、無償の愛に不安を感じ、自分の信仰が脅かされていると思い、怒りを覚えるのです。そんな自分を守るために、己のない人、無私の人が来ると、この世の宗教的な人はその人を殺すのです。だから、自分が中心にある人々、自己中心的に生きている人々は神の招き、恵みを受けると反発し、拒否してしまいます。神の招きを受けて、ある人はこの世の中へ出て行ってしまいます。また、宗教的な人は腹を立てて、イエスを殺すことによって自分を守ろうとします。

 「そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」とイエスは言われます。マタイによる福音書が書かれたのは紀元80年頃ですから、ユダヤ戦争による紀元70年のエルサレム神殿の炎上、陥落がキリスト教の伝道を拒否したユダヤ人指導者たちへの神の審判であったという考えが示されていると考えることができます。そのことは同時に、神はこの世に対して正しい審判を下される真の支配者であるからこそ、まさに信頼し賛美すべき方であるのです。洗礼者ヨハネはファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢洗礼を受けに来たのを見たとき、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ・・・」(マタイ3710)と言いました。

 たとえ話はさらに続きます。「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々はふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」。神に招かれるのにふさわしい人々はここでユダヤ人から異邦人へと拡げられました。「そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客で一杯になった」とイエスは言われます。ここでイスラエルに対する批判のテーマから、キリスト教会内に対する批判のテーマへと論点が変わります。神に招かれて教会に入った人の中には善人も悪人をいます。そこに王が最後に入って来ます。そして、婚礼の礼服を着ていない者を一人見つけました。王はその人に問います。「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」。しかし、この人が黙っていると、王は側近の者たちに言いました。「この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするであろう」。そして、イエスはこのたとえ話しを「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」という言葉で終えています。

 ここで、「婚礼の礼服を着ていない」ということはどういうことなのか、考えてみたいと思います。「服を着る」ということは旧約聖書において、その人の本質がその服によって変わることを意味します。イザヤ書6110節ではこのように言われています。

「わたしは主によって喜び楽しみ

 わたしの魂はわたしの神にあって喜び踊る

 主は救いの衣をわたしに着せ

 恵みの晴れ着をまとわせてくださる

 花婿のように輝きの冠をかぶらせ

 花嫁のように宝石で飾ってくださる」

婚礼の礼服は溢れる喜びを表します。だから婚宴の席に招かれた人は神に招かれた喜びに溢れているべきなのです。それなのに、喜ばないで黙っているこの人は自分の敬虔さを身につけています。それでは婚宴の席に招かれるのにふさわしくないのです。この人には本質的に神に招かれているという喜びがありません。婚礼に招かれて出席することと婚礼の礼服を身につけてもらうことは一つの恵みなのです。

 教会において、善人か悪人かが問われているのではありません。教会の中には善人も悪人もいるのです。悪人であることが礼服を身につけていないということではありません。また、礼服を身につけるのも自分が身につけるのではありません。「主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる」のです。

 喜んでいるかどうか、感謝しているかどうか。神に招かれていることを真剣に受け取っているかどうかということが、今、神によって問われているのです。私たちは神のものです。私たちの全存在を神に返すことが大切です。その時、私たちの思いを遙かに高く超えた神の救いの恵みを値なしに頂くのです。これが神の招きです。喜びへの招きです。イエス・キリストの十字架と復活の福音です。この圧倒的な恵みの中にある自分の生を喜んで生きているというこの現実が、神の招きに応えて生きているという私たちの現実であり、これが即ち、招かれた神が選ばれているという神の現実なのです。

 この世のものに囚われて自分に執着し、神のものを神に返すことができないと、神の招きに応えて神の方へ行くことができず、神を無視することになります。キリストの十字架の贖いを全身全霊をもって受け取り、キリストの十字架の恵みに真剣に応え、この世から離れるのではなくこの世を負いつつ、日々、生きる人。自分の思いではなく、神の思いに信頼し、すべてを委ねて、その平安の中で生きる恵みを感謝する人。礼服をつけて、日々生きる人。恵みの中で喜んで日々を生きる人。神に招かれた喜びに溢れて今日という一日を感謝して生きる人が、神の婚宴の席に招かれるのにふさわしい人、神に選ばれた人なのです。神が選ばれるということと、私たちが主体的に生きるということは、神の招きという絶対的恵みの出来事の中では一つなのです。

    (201010月3日礼拝説教)

 

 
 
 
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