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2012年1月15日 礼拝説教 「望みを抱いて」  笠原義久

創世記1716/ローマの信徒への手紙41325

 

? 私たちは2012年という新しい年、主の恵みの年を加えられ、その歩み出しをすでに始めています。しかし、神は何故私たちに新しい時を備えられるか。私たち各々の人生に、楽しいとばかりは言えない、むしろ労苦の多いであろう時をさらに新たに加えられるというのは、一体何のためなのか。教会が、その働きや存在が明々と輝くというよりは、自らの無力や問題に悩み苦しまなければならない、そのような時を新しく与えられたというのは一体何のためなのか。この問いに対して、私たちの側からの明確な答えはありません。はっきりとしているのは、今の時は神がその御国を来らせるための準備の時として置かれ、私たちはその備えの時の中に生かされているのだということです。

ある人はこう言います。「人が年を加えられていくのは何のためであるか、それは各々の者が信仰を深めるため、神の国を待つ者として御心が地に行われるように祈り働くためである」と。私たちが新しい年を加えられたということは、決して自明のことではなく、御国の成就に際して、私たちが一人として滅びることがないようにという神の配慮の故であり、そしてこの時、神御自身がそのためにいよいよお働きになり、そのお働きに私たちを与らせようとしておられる。私たちは今、志を新しくさせられて、救いのための神のお働きに目を開かされて、各々の者がいっそう神に仕え、隣人とこの時代の為に精一杯に祈り、生き、働く者とさせられたい。神は御国の成就の備えの時として、新しい年を設け、そのために私たちが祈り生き働くようにと、この年を与えておられるのです。

 ローマの信徒への手紙418節「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じた」という御言葉に目をとめたい。これが神が備えてくださった時の中に置かれている者の在りように他ならない。望み得ない時になお望みにおいて生かされることが、神の忍耐と配慮、即ち神の支配の時の中に生きている者のありように他ならない。ですから「望み」は「生きる」の別表現だと言えるでしょう。望みが失せてもなお生き続けるのは地獄の責め苦にも等しい。旧約聖書で「我々の望みはつきた」と言ったイスラエルは、避け難く「我々は絶え果てる」と言葉を続けざるを得なかったのです。しかしここで御言葉は、望みは尽きたのになお望みにおいて生きた、と言っています。一体このような強靱な在り方が何故可能なのでしょうか。

 「望み得ないのに、なおも望みを抱いて信じた」その彼とは、その前の箇所から分かるように、すべての者の父・アブラハム、信仰の父であるアブラハムのことです。したがって私たちはこの御言葉を、アブラハムの信仰を背景にしつつ聞かなくてはなりません。ここと直接関係しているアブラハムの記事は、創世記15章と17章にあります。どちらも神が祝福の契約の相手としてアブラハムを選び、その具体的な形として彼に子孫を与え、彼を多くの国民の父とする、そういう約束を与える箇所です。ローマの信徒への手紙は、アブラハムが、すでに自分の体が死んだ状態にあり、サラも子を宿せない体であることを認め、自分たちにはすでに望みはないということを十分知っていたと記しています。これは醒めた目をもって現実を見ている一人の成熟した人間の姿です。アブラハムの信仰は、そのような現実から目を反らし、現実ではない他の世界に自分を移すという在り方ではありません。アブラハムは望みのない自分の現実に目を留めていました。このようなアブラハムに神の約束が与えられたのです。

 アブラハムは自らの望み得ない現実を十分に知りつつ、しかもなお、神の約束、神の御言葉への信頼の故に、望みのない現実に望みを失うことなく、望みを堅く豊かにされたのです。このように望みなき事態に逆らって、真の力としての望みに生きることのできる人は幸いだと思います。しかし私たちは、そのようなことのできるのは信仰深い人、自分の運命に対して勇猛果敢に戦える人、マイナスをプラスに転化できる機転の利く人、望みなしと言っても一条の望みの光は失っていない幸福な人、そのような人のことであって、どれも自分には関係のないことだと思ってはいないでしょうか。

 アブラハムは、確かに特別な人であったに違いありません。けれどもその特別さというものは、ただひたすら神がアブラハムに出会い、神が彼に語りかけ、働きかけてくださったからに他なりません。決して優れた資質や従順な性質、鋭い洞察力、よき働き、そのような彼の特別な才能や力によって、望みなき事態に抗して望み得たのではありません。実に信仰とは、私たちの働きや在り方とは別に、ただひたすら、このような神の私たちに対する恵みの働きの事実、その事実を確認し、その事実を信頼することによるのです。

 パウロはこのようなアブラハムの在りようを記すことによって、力をこめて信仰は恵みにより、その恵みによってあなたがたは生きるということを告げています。もしアブラハムが自分の力によって望みを切り拓こうとするならば、彼の状況はいよいよ悲惨の様相を濃くしたことでしょう。アブラハムが望みを失わないでなお立ち得たのは、自分の力や、自分の働きこそが最後の切り札であるという考え方、在り方から解き放たれ、神の約束、神の御言葉、神の恵みこそがただ私たちを生かし立たせるものである ― そこに望みを置いたからです。そこにアブラハムが信仰の父と言われる所以があります。彼は「働きがなくても、その信仰を義と認める、不信心な者を義とされる方」を信じたのです(ロマ45)。その方とは、死人を生かし、存在していないものを呼び出して存在させる方、すなわち無から有を呼び出される神です。そのことのゆえに、アブラハムは、なお望んで立つことができたのです。

 このように死人を生かし、無から有を呼び出される神が必ず御心をなし給う、その事実こそが、望めない時になお望んで立たせる力なのです。この神が主キリストにおいて私たちに臨んでおられる故に、私たちは望みのない者のようにではなく、望みによって立たせられている者となることができるのです。

 主イエス・キリストが私たちを御支配なさっているという勝利の現実と約束は、ただ最終的に与えられるというだけではなく、具体的な毎日の私たちの生活の中にまで貫いています。キリストが私たちの生活の上に力を振るっておられる ― 神は主イエス・キリストの御支配を通して必ず御心をなし給い、あらゆる障がい、閉塞状況を神の方から打ち砕いて下さる。私たちの小さくてささやかな望みや願いを神の御計画と配慮の中で必ずや顧みてくださるのです。

 このようなやがて来られ、また今すさまじいまでに働いておられる主キリストが、私たちひとりひとりの主、教会の主、この時代、この世の、またどのような問題領域においても唯一の主でおられるということが、私たちの望みの根拠です。この主が御支配を貫徹し、ご自身の意志を成就し、御国を来らせてくださる、この事実に信頼しあくまでも固着することが、望みなき、望み乏しいときに望みの中に立たせられるその力となるのではないでしょうか。

 私は、暮れから正月にかけて、雑誌『世界』の別冊として出された「破局の後を生きる」という311の被災者の数多くの手記を少しずつ読むことができました。何事もなかったかのように、震災以前と同じ番組を流し続けるテレビ。静かに、しかし急速に自分の日常に引き戻され、被災地との「温度差」がどんどん広がっていくなかで、今もっとも必要なことは何であるか。それはもっとも苦しんでいる被災の地にある人々の声を聞くこと、この人たちのことを忘れないことだと思います。そのことを通して、何がいったいこのような破局をもたらしたのか、私たちの間でもっと真剣に議論し考え合うことだと思います。そして、井上ひさし氏の言葉を借りるなら「取り返しのつかない」ことを「取り返す」ことから始めることだと思います。

 「取り返しのつかないことを取り返す」と言っても、原発事故と放射能汚染のことは取り返すための一条の光さえ見えないと言ってよいでしょう。人間の理性や勇気が当面する混迷や困難を一つひとつ克服してゆくことがある程度期待できた、かつての状況とは比べものにならない事態です。さらに事故はまだ進行中であり、放射能の人間や生物に対する影響はこれからますます現れ、長期にわたって続くことでしょう。「非常事態」はまだ継続しています。放射能に汚染された地域の人々はどうでしょうか。仕事と暮らしが奪われたうえ、先のことは何も見えない苛立ちと怒りと悲しみが蓄積され、増幅されている。このような真っ暗闇に目を留め、根本的に事態が好転して行くことに対し望みを持つことは本当に困難なことだと言わざるを得ない。

 けれども私たちは、死人を生かし、存在していないものを呼び出して存在させる方、無から有を呼び出される神がおられることを告げ知らされている者たちです。その神は、「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている」と預言者第二イザヤを通し私たちに約束しておられる神です。その神の約束と御支配の故に、なお望みをもってこの時代の中に立つことを許されている。もちろん、私たちの教会、日本の教会も、神のお働きに自分たちも与って、何かができるなどと大見得を切れる状態にはなく苦しんでいます。しかし私たちがどんなに非力であり、苦しんでおり、問題に満ちていても、神はなお私たちの教会をこの日本の地に立て、用いようとしておられる。自分の不信仰に泣かんばかりの苦しみを味わっていても、私たちの目にはどんなに望みがなく展望が開けないとしても、なお神は「新しいことを行う」という約束をもって、その成就に向けて必ずや私たちの行くべき道を備えていてくださると信じるものです。

 これが私たちの望みの現実です。希望を失ってはならない。この神からの望み、神による望みによって、私たちは、この年各々の歩みを、また教会の歩みを、力づけられて助けられて続けたいと願うものです。

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