コリントの信徒への手紙一 15章12節以下をご覧ください。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」。
ここに出てくる「死者の復活」という言葉は複数形で、「死者たちの復活」です。つまり「私たち」の復活のことです。コリント教会の中には、キリストの復活は信じるが、私たちも復活するという教えについては受け入れられないという人たちがいて、それを重大な誤りであると、パウロはここで語っているのです。しかし同様の現象は、今日の私たちの間にもないでしょうか。「キリストは神の子であって私たちとは違った例外的なお方ですから死から甦っても不思議ではない。でも私たちも復活するということについては、どうなのだろうか」、という声が聞こえてきそうです。でも聖書はキリストがその点で例外的であった、というところで、止まってはいないのです。20節に、「・・・キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と言われています。この「初穂」とは、農業従事者の間では、その後の収穫の保証とみなされていたものです。初穂が穫れたらその後には収穫が続くと保証されたと、考えられていたのです。従って、ここでパウロが、キリストが復活の初穂として復活された、と言っているのは、復活の二番手三番手が保証されたと言わんとしているのです。つまり私たちの復活もあるのだ、というのです。
実は死人の復活を信じる信仰は、元々ユダヤ教にもありました。例えば使徒言行録23章6節にこうあります。パウロはエルサレムに行ったとき、議会の中でこう言いました。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです」と。彼がそう言うと、議会の議員の間で死人の復活を認める人と認めない人とが分裂した、ということが書かれています。この実例が示す通り、ユダヤ人の中に死人の復活を信じる人と信じない人がいた。もっと言うならファリサイ派とサドカイ派の間でこのことに関する論争があったということです。それが旧約から新約に移行する時期のユダヤ教の状況でした。パウロもファリサイ人として、元々そのユダヤ教の復活待望を知っており、それを前提として12節以下のことを語っているのです。
ユダヤの復活信仰は捕囚期後、初期ユダヤ教の黙示文学の中で様々に受け止められています。それについては割愛しますが、今日の旧約の箇所である復活待望の聖書最古の証言と言われているイザヤ書26章19節を見てみましょう。「あなたの死者が命を得/わたしのしかばねが立ち上がりますように。/塵の中に住まう者よ、眼をさませ、喜び歌え」。
パウロや初代教会の人々は、そのような黙示文学的な思想を前もって受け入れていましたが、イエスの復活の顕現に接した時に、彼らの復活の希望は、そこで一層確証を得て、より確かなものとして固まったのでした。そしてパウロは、他の弟子たちが復活のイエスに出会ったという話や自らの復活のイエスの顕現に触れた経験を、みな黙示文学の復活思想の範疇に属する出来事として関連付けたのでした。21節で「死者の復活も一人の人によって来る」と言っているのは、旧約時代から教えられていた死者の復活がイエス・キリストという一人の人によって来たと言う意味です。そのようにしてパウロは両者(旧約の復活思想とイエスの復活)を結びつけているのです。
尤もここで一つ問題がありました。ユダヤ教の黙示文学では復活は比喩的に表現されていました。私どもは朝眠りから目覚めますが、死者の甦りも朝の目覚めのようなものと言われてきていたのでした。先ほど読みましたイザヤ書26章19節の表現も同様です。でも比喩的表現というものには限界があります。比喩的表現の持つ曖昧さを意識することは避けられないのであります。そこでパウロは復活を単純な比喩的表現だけでは済ませなかったのです。39節以下で「どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉・・・」と、被造物の肉の多様性を述べ、その上で私たちにも「地上の体と天上の体がある」と、つまり現在の体と将来の体についての説明に入っていくのです。両者は異質であり、将来の体は朽ちない、霊の体である、とそう述べて、パウロはその霊の体と現在の朽ちる体との間の関係を徹底的な変貌であると記しています。変わらないで残る部分は何一つないかのような変貌であります。古い存在から新しい存在への変化の中には、素材上の連続性も、構造上の連続性もない。正に「肉と血は神の国を継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(50節)と言っているのです。そして、最初の人は地に属するが、第二の人は天に属する人、また天に属する人の似姿にもなると言われています。同様の教えはイエスにもまた見られます。マルコによる福音書12章25節「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」と、言われています。パウロが言っている「天に属する人になる」ということは、イエスが言われた「天使のようになる」ということと近いと思います。そのようなわけで、パウロは、そしてイエスもそうですけれども、復活は新しい創造に似た変貌として語っております。従って、ここで私たちも一つ整理をしておかなければならないと思います。聖書に見る復活には二種類があります。根本的な変貌と、単なる死者の蘇生の二つです。例えばイエスが行った復活の奇蹟として、ナインの若者、ヤイロの娘、そしてラザロの復活は、一度死んだ体が蘇生された出来事でした。でもこれは根本的な変貌ではありませんでした。私たちの復活はそれらとは区別して考えなければなりません。イエスの復活やキリスト者の終わりの日の復活は、朽ちない体への復活であり、それは私たちが慣れ親しんでいる体とは異質の体への移行なのです。
ところで、もう少し踏み込んで考えてみたいと思います。所謂ギリシャ的霊魂不滅と同じなのか違うのかについてです。肉体が死んでも霊魂は死なないという霊魂不滅論は世界中にある考え方ですが思想的に整理された形ではギリシャ思想に見られます。ギリシャの哲学者プラトンによりますと、霊魂こそ人間の本質であり、良きものであって、霊魂には不死性があり、それに対して肉体は不完全で霊魂の仮の宿であり、人の死とは不死なる霊魂が肉体から離れて自由になることだと、そういう風にプラトンは考えました。この考え方は日本人の間にも根深く存在することと思います。ヘブライ・キリスト教も古代からこの思想の影響を受けてきました。
だが、二〇世紀の幾人かの神学者が、痛烈にかような通俗的プラトン主義をキリスト教と相容れないものであると非難しました。何処が違うのか。まず永遠は人間の霊魂の自然的特質ではなく、霊の不死性が保障されているという事は無い。そのような考え方は異教的で聖書的ではないと言うのです。考えてみればその通りだと思います。
では霊魂不滅論を批判する神学者たちは、復活や永遠の命をどう考えるかというと、もう一度、無からの創造のようにして与えられる、と考えるのです。復活の変容を無からの創造、第二の創造と考えるわけです。
ただしこのような考え方に対しても、その後、神学者の中で異論が出されています。たとえばへブライ人への手紙9章27節に「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている・・・」と書かれているのをどう理解したら良いのか。死後審きを受けるためには、霊は残ると考える他ないのではないかということも言われていますし、また復活の変貌は、無からの創造というより、創造からの創造ではないか、ということが言われるようになりました。今日の箇所の53節でも「死ぬものは必ず死なないものを着ることになる」つまり、変貌は、すでにあるものの上に生起すると言われています。何か別のものがそこに代わって生起するとは言われていないのです。ですからその意味で、無からの創造ではなく、創造からの創造である、ということになるわけです。そういう議論が新たに出ています。捨てられた石を今一度、隅の親石として用い据えるということが、復活に於いて起こるのだという理解です。皆さんは、どうお考えになるでしょうか。いずれにせよ、復活および永遠の命という聖書の教えは、プラトンの言う霊魂不滅とは少し異なりますが、人は越え難い深淵を越えていくことが許されるということです。その時、死ぬものが死なないものを着、朽ちる体が朽ちない体を上に着、卑しい体は栄光ある体と変えられるのです。その希望が根拠となって「身体の甦りを信ず」という使徒信条の告白も生まれているわけであります。ですから私たちは何時も声高らかに、使徒信条のこの項目を唱えたいと思います。終末が来るとき、この新しい世界が造られる時、その新しい世界の到来の中で、人間の復活は創造として起こるのです。その時私たちはパウロの言い方でいえば「第二の人・天に属する人」、イエスの言い方でいえば「天使のようになる」のであります。そしてその時私たちは、この世の人々からは最も疎遠になりますが、同時に神からは最も近くあるようにされ、キリストと本当に身近な、新たな関係に置かれるのであります。神は私たちの魂を呼ばれて引き取ってくださるのです。ですから私たちは死によって全てが消滅するという考え方は捨てましょう。
ボンヘッファーは絞首刑の前日にあってもこう言いました。「これが最後です。しかし私にとっては命の始まりです」。そう言い、平安を以て死に向かったということであります。復活信仰があったからです。またかつて日本基督教団の総会議長であり、西方町教会の牧師であられた鈴木正久先生は癌の告知を受けた時、次のように言われました。「告知を受けることによって、今まであると思っていた明日が無くなるという経験をした。が、間もなく深い洞察に導かれ、復活を信じるとはこういうことだったのか、という種類の心境になった。そして、明日というものが死をも超えた先に輝いているようになり、今までとは違う明日と今日が与えられた。復活した主イエスと天で再会するという明日を私は持った」。私共も復活を信じることによってそのような永遠を信じさせて頂けるのです。御名を崇め賛美したいと思います。
(2015年04月12日礼拝説教)
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