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 2018年1月7日 礼拝説教  【新しい創造の時の到来】 笠原 義久

イザヤ書49章1-6節、マタイによる福音書2章13-23節



お読みいただいた、主イエスとその両親ヨセフとマリア、即ち、聖家族のエジプトへの避難を伝える物語は、この『マタイ福音書』だけに記されている独立した言い伝えです。マタイ福音書記者が明確な意図を以って、これに先立つ幼子イエスに対する東方の占星術の学者たちが示した反応と、ヘロデ王の幼子イエスに対する反応、その間にある鋭いコントラストを描き出そうとしている、そのことがよく分ります。

“神はその独り子を全ての者の救いのためにこの世に生まれさせ給うた。”この福音のメッセージは私たち一人ひとりに決断を迫ります。そしてこの福音を受け入れる者と拒絶するものとの間に分離をもたらします。幼子イエスを殺そうとするヘロデに体現される人間の罪と悪は、救い主を十字架に処刑するということにおいて極まりに達します。ですから今日の個所は、その主イエスの十字架の苦難の前触れになっていると、そのように言ってよいと思います。

さて、ヘロデはベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を一人残らず殺させたと記されています。この世の政治的な権力を武力によって一手に握る者、あるいは民衆の宗教心を巧みにマインド・コントロールすることによってこれを支配する宗教的原理主義者は、この世に真の平和をもたらす者、また神に由来する自由とか解放をもたらす者の到来を極度に恐れます。そしてその者に対して激しい憎悪を抱きます。自らの権力の根拠が何であるのかということを顕わにされ、自らの偽りものの宗教性を暴露されるからです。人々の間に対立と憎悪と敵意の感情を煽る者は、人間の歴史を通し繰返されてきた凄惨なホロコースト、ジェノサイド、集団殺戮を招き寄せます。これは2千年昔の主イエスの降誕に係わるヘロデ王の愚かな行為に限られた、そういう問題に限られた問題ではないと思います。

20世紀の世界大戦下における独裁者ヒットラーやスターリンによる人間性の侮蔑と反人間的な行為、あのジェノサイドの数々は言うまでもありません。この21世紀に入ってもなお、民族国家間の憎悪と対立は先鋭化しており、問題解決の展望はなお閉じられたままです。武力を以って、あるいは宗教的権威を以って民衆を支配しようとする者、真の平和をこの世に実現する存在に恐怖を抱きます。また、神でないものを神として民衆を誤って導く宗教家は、唯一絶対の神だけを真の神として畏敬することの大切さを、身を以って示す、そのような存在がこの世に到来すること、そのことに脅威を感じます。自らの存在の根拠を根底から揺さぶられるから、覆されるからです。このような脅威や不安から逃れるためには、唯一絶対の神だけを真の神として畏敬することの大切さを、身を以って示す、そのような存在のこの世への到来を拒絶する以外に道はないのです。不安を抱いて遂には拒絶の道をヘロデは選びとったのです。そしてそれが、大きな、大きな悲惨をもたらしました。自分が全てのものの中心でなければ不安と憤怒に駆られるヘロデ的な生き方、それはこの世に真の平和と、神の愛をストレートにもたらす、否、愛そのものである方と出逢うという絶好の機会を失うことになりました。

マタイは人となられた真の神を、自分たちの究極の忠誠を献げて礼拝した占星術の学者たちの在り方と対照することによって、このヘロデ的な生き方を見事に浮き彫りにしているのです。マタイはこのヘロデによる幼児大虐殺の出来事をイスラエルの預言者エレミヤの預言の成就として記しています。“ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている(エレ31:15)”と。これはヨセフとベニヤミンの生みの親母ラケルが、既に滅亡しアッシリアに移住させられた北イスラエルのために嘆き悲しんだことを思い起こしての預言者エレミヤの哀歌です。


さて、マタイが旧約の預言者たちを通して言われていたことの成就として記しているのが、最後の23節にある「彼はナザレの人と呼ばれる」という言葉です。この聖家族がエジプトから帰還して移り住んだ先は、主イエスの誕生の地ベツレヘムでも、またイスラエルの都エルサレムでもありませんでした。「彼らはガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ」とあります。イエスがそこで成長しその郷里ともなったのはイスラエルの民族の歴史、宗教の歴史の中でも最も目立たない、言及されることも極めて稀な“ナザレの村だった”と言うのであります。マタイは、“これは預言者を通しての神の意志の現われである”という真実だけを告げています。

マタイが的確にも洞察した神の意志とは何であったのか。その一つは、クリスマスによく読まれるあのイザヤ書11章にあるイザヤの預言の言葉です。エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち、この「若枝」という言葉、これが神の意志であります。

もう一つは同じイザヤ書にある所謂「主のしもべ」の歌の一節、49章の6節です。このようにあります。主はこう言われる。わたしはあなたを僕として ヤコブの諸部族を立ち上がらせ イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。 だがそれにもまして わたしはあなたを国々の光とし わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

この「残りの者」、という言葉、これが神の意志です。今出て来たこの「若枝」、それから「残りの者」という二つの言葉の下のヘブライ語における語根、即ち、共通の意味を持つ一番基本的な語の形は「ナザレ」「ナザレの人」という語の語根と同じです。「彼はナザレの人と呼ばれる」、そのように言うマタイは、「若枝」、そして「残りの者」「ナザレ」、これが同じ語根から来ているということ、そのことをよくよく知った上で、「彼はナザレの人と呼ばれる」とそのように語っているのです。「若枝」というのはメシアの重要な称号の一つであり、またメシアによる救いを表現する語として解釈されていました。マタイはその「若枝」こそが「苦難のしもべ」としてメシアの前触れであり、またイスラエルの「残りの者」を連れ帰る神の長子であるイスラエルを真に継承するものだと、そのように鋭く洞察したのです。

私たちは福音書記者マタイが、主イエスの幼児物語の伝承に触れた時の驚きと、そして心を躍らせるような喜びを手に取るように感じることが出来るのではないでしょうか。

主イエスの時代におけるイスラエル宗教の事情に少々触れることをお許しいただきたいのでありますけれども、当時のイスラエル宗教の様々な宗派は、今、申し上げた、神の長子であるイスラエルを真に継承する者は誰かということを巡って、各々独特な宗教運動を展開していました。ファリサイ派、エッセネ派、また洗礼者ヨハネの洗礼運動というのもその一つであったと言うことが出来ます。即ち、誰が若枝であるか、誰がイスラエル民族の歴史における「残りの者」であるか、それが最も中心的な問題でした。そのようなユダヤ人社会の宗教と社会状況の只中で主イエスの誕生とナザレでの聖家族の歴史の開始がマタイによって公然と告げ知らされているのです。

イエス・キリストの降誕は新しい創造の時の到来です。私たちの歴史に神が決定的に係わってくださる、その神の係わりの決定的な開始の時です。「若枝」、そして「残りの者」である「ナザレの人イエス・キリスト」における神の決定的な働き、ただひたすら、その神の恵みの働きによって、新しい神の救いの歴史形成に与ることが許される新しいイスラエルである信仰共同体、即ち、教会の形成と、そしてその出発の時と場が与えられる、それがイエス・キリスト降誕の時なのです。


私たちはこの主イエスご降誕の喜ばしい光の中で、新しい年2018年を迎え、第一の主日礼拝にご一緒に礼拝者としてここに集っています。私たち大方の者にとっては、年の終わりとか始まりとかいうことの感慨が昔よりはだいぶ薄らいできているということ、そのことは事実でしょう。しかし私たちキリスト者たちにとっては、新しい年は単なるカレンダーの日めくりが一つ変わったということだけではなく、私たちになにがしかの感慨を与えるのは、新しい年が終わりに向かっての一歩であるということではないでしょうか。やがては何人(なんぴと)も終わるときが来るのだと言う、そのことに向かっての繰返されない、反復されることのない2018年という年が始まったということです。そして私たちの、この生涯の終りに向かっての一歩は、やがて来たるべき、主の大いなる日に向かっての予告編であり、またそれに向かっての一歩であるということではないでしょうか。

終わりに向かっての始まり、このことが私たちの気持ちを引き締め、これまで果せなかったものを少しでも埋め、そして果たして行こうとし、気持ちを新たにしてこれからの歩み、或る者にとっては残された人生とか、残る日々を数える人もあるかと思います。私もそうです。その終わりに向かって一歩を始めて行く、それは間違いなく或る意味で収支決算の時であり、何人も否応なくその収支決算の場に立たされる、その厳粛さを持っているからです。

もう一つ、教会の暦では、今日のこの主の日は降誕節第二主日、また昨1月6日、公現日の翌日に当たります昨日が、教会の暦では公現日でした。公現日エピファニー、これは神がイエス・キリストという人間の形をとって私たちの前に公に姿を表されたことを祝う日であります。古きは過ぎ去り新しいものが始まった、救い主イエス・キリストが来てくださったことは、今、全世界と歴史に新しい1頁が加えられ、歴史が書き換えられたこと、即ち、新しい創造の時の到来を意味するのです。

聖書では「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古い物は過ぎ去った。見よ、全てが新しくなったのである(Ⅱコリ5:17)。」、あるいは、「今から後、主にあって死ぬ死人は幸いである(黙14:13)」と言われます。もはや終わりは終わりにならず、この新しい一歩は破滅への一歩ではなく、喜びの一歩です。聖書では全てのことを考える出発点となるのが、神がこの私たち人間の歴史に直接介入してくださったという出来事です。それが全ての起点となります。即ち、救い主イエス・キリストが私たちの一人となってくださった、私たちの中に宿ってくださった、このことが全ての出発点になり、また基準点となるのです。


この2018年も、そのキリストの恵みの支配の下に置かれています。ですから心を込めて祈り、心を込めて働き、心を込めて御言葉に聴きたいのです。相共に 助け合い、励まし合いつつ、祈り、働き、そして御言葉に聴く生活を、神の前に続けたいと願います。私たち一人ひとり“どうかこのことだけは、させてください”という、そういう願いを以って、この年を始めようではありませんか。それがどんなに小さいことでもよい、私たちが神に仕えるということは、そういう小さいところから始まります。

主イエスの誕生とナザレでの聖家族の歴史の開始を聴いた者として、この週の、そしてまた、この年の歩みをさせられたいと、そのように願うものであります。祈ります。
   
   
主なる神、語りました言葉をあなたの聖霊の働きによって生けるあなたの御言葉にしてください。主イエスの誕生とナザレでの聖家族の歴史の開始を聴いた者として、私たちの歴史に、神さま、あなたが決定的に係わってくださる新しい創造の時の開始を聴いた者として、この年の歩みを始めさせてください。主キリストの御名によって祈ります。アーメン。


(2018年1月7日礼拝説教)


 
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