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 2018年5月27日 三位一体主日礼拝説教  【霊における新生】 笠原 義久

エゼキエル書37章9-10節、ヨハネによる福音書3章1-10節



かつて、アフリカ系アメリカ人の奴隷であった人たちについて、よく知られている話があります。今朝のテキスト、即ち、ニコデモが夜の帳(とばり)が下りる頃、イエスをひそかに訪問したということが、彼らの自分たちだけの礼拝のための集会を行う重要な手本になったという話です。

奴隷であった人たちは、彼らの主人が許可した場合にしか教会の礼拝に加わることが出来ませんでした。彼らは自分たちだけで礼拝することも、聖書を読むことも許されてはいませんでした。しかし彼らはニコデモの夜の訪問に、たとえ力のある者が禁じたとしてもイエスの下に行くことが可能だという、そういう証拠を見つけて、夜間に密かな礼拝のための集会を持ったということです。そしてこれは、奴隷解放後も続いた習慣であったということです。ニコデモは彼らにとって権力者の意志に逆らってでも自分自身の意志で行動する人間の手本のような存在であったのでしょう。

アフリカ系アメリカ人の奴隷の人たちにとってニコデモはそのような人であったということ、しかし、今日の与えられたニコデモの物語を読むと、必ずしもそうではなかったというふうに言わざるを得ないと思います。今朝のテキストを読んでみると、実際のところニコデモは、イエスが彼に差し出した招待状が何であるかを理解できなかった、そういう人としてここに登場しているように思えます。何故なら、ニコデモは、“私たちは<これこれ>のことを知っています”、そのように自分の知識を確信しながらイエスに近づいているからです。そこでは自分の知識についての確信というものが邪魔をしています。イエスとの出会いによって自分が変えられるという、そういう経験には至らないからです。私たちも今朝、“自分は既に<これこれ>のことをしっている”という、そういう確信から少し離れ、出来る限り、出来る限りのことですけれども、心を無にして、このテキストに向かうことを求められています。そして他ならぬ“イエス、その方が発している切なる招きを受け容れる”ということ、そのことを私たちは求められています。

さて、ヨハネ福音書の際立った特徴の一つは、福音書の登場人物とイエスとの会話に、私たち福音書を読む者、あるいは聴く者が引き込まれ、そのことを通して私たちが自分でイエスと出会うことが出来るように物語が構成されていることです。ですから今朝の物語も、イエスとニコデモとの対話の展開に則して、そのダイナミズムを損なわないようにお話しすべきなのでありますけれども、今日は敢えて、そのようにではなく、テキストから浮き彫りにされる一つのテーマだけに集中して、そこにだけ焦点を絞ってお話ししたいと思っています。一つのテーマというのは、説教題として掲げた「霊における新生」、「霊において新しく生まれ変わる」ということです。

これは3節にあるイエスの発言の中に出てくる言葉です。はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない。「はっきり言っておく」、元の言葉では「アーメン、アーメン、わたしは言う」。「アーメン」というのは「それがそうでありますように」ということ、そのことの実現を神ご自身がキリストにおいて“然り・確かにそうなる”と言われることです。「然り」ということが「イエスにおいて実現される」ということです。何故なら「神の約束はイエスにおいて然りとなった」からです。「アーメン」は、常に、その確かな約束の下にした未来への出発の促しです。「アーメン」はそれを聴く者を覚醒させます。目覚めさせ、迷いから覚まさせます。このイエスの言葉を私たちはそのようなものとして聴かなければならないと思います。「アーメン、アーメン、わたしは言う。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない。」と。


さて、この3節のイエスの言葉は、「神の国」についての伝統的なイメージと、そして「新しく生まれる」という比喩とを組み合わしているそういう言葉です。ギリシャ語を出してまた申し訳ないのですが、新共同訳で「新しく」と訳されている元のギリシャ語は「アノーテン a;nwqen」と言います。そしてこのギリシャ語は「上から」という意味と、「再び」、あるいは「新しく」という二つの意味、「上から」ということと「新しく」という二つの意味を含み持っています。「上から」と同時に「新しく」、この二重の意味はギリシャ語の場合にだけ可能であってヘブライ語や当時に日常語であったアラム語には、これと類似した二重の意味を伝える語はありません。これは近代語においても同様です。従ってこの「アノーテン」という言葉を訳すに際しては、先ほど申し上げたような「アノーテンの」という言葉が含み持っている二つの意味のどちらかの意味を訳す時には取り上げざるを得ない。近代語訳聖書では日本語も含め「新しく」と訳すのが多いのですけれども、「上から」と訳している聖書もあります。

「上から・新しく生まれる」という二つの意味を内包した、或る意味で曖昧性を伴っているイエスの言葉は、実はニコデモに対する、或る意味、挑戦の言葉であると言うことが出来るでしょう。“表面的な意味の奥にあるより深い意味に注目するように”と、そのように挑んでいるのです。「アノーテン」の一方の意味だけに限定することによってこのイエスの言葉に内包されている緊張感を解いてしまうと、ニコデモに対する、また同時に私たち聴き手に対するチャレンジが、イエスのチャレンジが、もっと言えば神さまの私たちに対するチャレンジが持っている緊張感というものが失われてしまうのです。イエスの言葉を本当に理解し、ニコデモの誤解の性質というものをしっかり読み取るためには、「アノーテン」という言葉の意図的な二重の意味をしっかり心に留めておかなければなりません。そしてこのことはヨハネ福音書では今日のニコデモの物語にしか出て来ない「神の国」という言葉と合わせ考えることによって一層明確になります。共観福音書には「神の国」という言葉は頻繁に出て参りますし、そしてイエスの宣教の最も中心的なことであったというふうに言われていますけれども、ヨハネ福音書ではこのニコデモの物語に出てくるだけです。

「アノーテン」ということによって「生れる時」、即ち、「再び・再び生まれるというその時」と、それから「誕生が始められる場所」、何処から誕生が始まるのか、何処に誕生というものが起源するのか、即ち、「上から」という場所の、つまり「時」と「場所」の両方のことが語られていることになるわけです。「神の国」は「時」と「場所」という二つの次元を持っています。つまり「アノーテン」と言うことによって、「神が支配する時」と、それから「神が支配する領域」という二つの概念がそこで呼び起こされているのです。


更にイエスはニコデモを誤った理解から解放するために、一連の新しいイメージを更に提示します。5節にある「水と霊とによって生まれる」という表現は、明らかに「アノーテンに生まれる」という語句の一つの解釈です。「水と霊」、そのように聞くと私たちはこれを「洗礼(バプテスマ)」のイメージと直結させます。確かにバプテスマのことをイメージして全然間違いではないわけですけれども、しかしここのイエスの言葉は必ずしも洗礼と関連付けなくても理解できる言葉です。直前の4節でニコデモは「母の胎」という言葉で人間の誕生の過程にイエスの注意を引き付けました。ニコデモの思い描く「誕生」は母の胎から出ることであり、それは文字通り「水の中からの誕生」です。即ち、誕生の際の破水は、子どもが今にも生まれて来ることを告げ知らせます。この5節でイエスはニコデモが抱いた胎のイメージをもじって“神の国に入るためには二つの誕生が必要だ”とそのように語ります。肉体的な誕生、即ち「水」と、そして霊的に生まれ変わる誕生、即ち「霊」です。新しい命は、もはや水だけから生まれるのではなく、「水と霊から生まれる」と言うのです。しかし、霊的に生まれ変わるということは肉による誕生ということを否定したり無効にしたりするものではありません。肉と霊とはここでは一つになっているのです。

そして更に8節、イエスは自分が言わんとしている「誕生」を説明するために「風」のイメージを用います。[風]を表すギリシャ語「プネウマ pneu/ma」、この言葉は「アノーテン」と同じように二つの意味を内包しています。即ち「風」と「霊」の二つです。「プネウマ」にはこの二つの意味が含まれています。ここでイエスは再び「新たな誕生」ということを一つの意味だけに限定することのできない言葉で説明します。この「プネウマ」という語はイエスのメッセージの真髄を的確に捉えています。「風・霊は思いのままに吹く」、人間はこの「風・霊 プネウマ」の存在ということを察知することは出来るけども、それが実際にどのように動き、どのような働きをするのか、そのことを正確に人間は示すことが出来ない。イエスが差し出している新しい誕生はこの「プネウマ(風・霊)」のようなものであって、人間の知識や、あるいは人間の支配ということを超えた神秘であるということがここでは強調されています。

私たちの多くは、この私をも含めて「アノーテン」という言葉の一つのレベルしか理解しないで、ニコデモが犯したのと同じ過ちを繰返しているのではないでしょうか。ニコデモは「再び生まれる」ということと、「上から生まれる」という二重の次元を理解できなかったがために、肉体的な生まれ変わりのことしか考えられませんでした。3節と7節に出て参ります「アノーテンに生まれる」というのは、先ほど申し上げましように、今日圧倒的に「再び生まれる」あるいは「新しく生まれる」という訳の方が優勢です。そこでは「再び生まれる」、あるいは「新しく生まれる」ということと、「上から生まれる」ということの相互関係が明らかに見落とされています。個人的な悔い改めによる精神的な生まれ変わりを専ら表すものとして、そのことが決して必要でないというふうに言っているわけではありません。そうではなくて、「アノーテンに生まれる」ということを、「新しく生まれる」、あるいは「再び生まれる」、そしてそれを個人的な悔い改め、あるいは悔悛、そういう精神的な生まれ変わりを専ら表すものとして「アノーテン」を理解するということは、この言葉の持っている決定的に重要なことを見落とすことになるということです。

即ち、どういうことかというと、この後、14節に、こういう言葉が出て参ります。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

つまり「人の子が上げられる」・「イエスが上げられる」・「イエスが十字架に上げられる」ということです。イエスの十字架の死のことを言っているわけです。イエスが十字架に上げられることによって私たちが「上から生まれる」、そういう次元を、私たちの個人的な悔い改めによる精神的な生まれ変わりということだけ、もっぱらそういうものとして「アノーテン」を理解することは、イエスが言わんとしていることのもう一つ決定的に重要なこの「イエスが十字架に上げられる」という、「上から生まれる」というその次元を削ぎ落としてしまう、そのことに繋がると言わざるを得ません。14節は明らかに、「人の子であるイエスが上げられる」・「イエスが十字架に上げられる」ということを言っています。

私たちの内面ではなく、私たちの外にあって、私たち一人ひとりの外にあって、私たち個人の内に変化をもたらす源となる十字架ということを強調しないで、私たちの「新しく生まれる」という精神的に、個人的な悔い改めによる恣意性?という、その個人の変化だけを、その個人の変化だけを強調することは、私たちはしてはならないというふうに思います。

今、ここで、私たちも、ニコデモも、共に「アノーテンに生まれる」という表現と格闘し、そしてどのような新しい誕生が同時に上から生まれることであるかということを見極めるように、そのように求められています。これまで経験されなかったような新しい生き方のヴィジョンを求められています。それは「水と霊から生まれる」生き方であり、イエスの十字架を通して再び生きる者とされる、そういう生き方です。私たちはそのような生き方への招きを受けているのではないでしょうか。そしてこの招きを受け容れるということは、私たちが今日の聖書の御言葉によって変えられ、この御言葉においてイエスが与えてくださる新しい命を積極的に受け容れるということを意味します。そしてこれが、ヨハネ福音書がこの後、16節と18節で語っている「イエスを信じる」ということです。

16節、18節は「イエスを信じることによって人の生き方は変わり、その人は生まれ変わることになる」という、そういう、そのことを現実的に語ることが出来るのだというふうに16節、18節は言っています。


「生まれ変わる」ということ、それはその人の人間性が本質的に変化するということではありません。イエスにおいて啓示された神の本質、即ち、イエスにおいて神がどのような方であるか、そのご本質を本当に知らされることによって初めて可能となる新しい始まりなのです。「イエスを信じる」とは16節にあるように、そしてヨハネ福音書を語るときには常に読まれるこの16節の言葉、「イエスが神の子であり、神は御子を賜物としてお与えになったほどに世を愛された」ということを「信じる」ということ、それが「イエスを信じる」ということです。イエスにおいて啓示された、即ち、ご自分がどのような方であるかということをイエスにおいて余すところなく明らかにされた神は、限りない愛を以って「人がその賜物を受け容れることだけを求めておられる」、そういう方です。そして人がその賜物を受け容れるなら、その人は「永遠の命を受けることが出来る」とそのように約束されています。

何故ならば、人の生き方はイエス・キリストにおいて示された神の愛によって形づくられた、新しく形づくられ直されるからです。同じことを使徒パウロはフィリピの信徒への手紙の中でこう言っています。Phi 2:13 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。

「あなた方の内に働いて」、そして「御心のままに行わせておられる」、「働いて」、そして「行わせる」、ここでそのように訳されている元の言葉は「エネルゲオーevnerge,w」という言葉です。この言葉から今日の「エネルギー」という言葉が生まれました。だから「働く」「行わせる」というのは巨大なエネルギーを出すような、そういう働きのことです。そのような神の大きな力が、イエス・キリストの十字架において示された「神の愛」というエネルギーとして、私たちの間に働いているのです。

主イエスの誕生とナザレでの聖家族の歴史の開始を聴いた者として、この週の、そしてまた、この年の歩みをさせられたいと、そのように願うものであります。祈ります。
   
   
主なる神、語りました言葉をあなたの聖霊の働きによって生けるあなたの御言葉にしてください。主イエスの誕生とナザレでの聖家族の歴史の開始を聴いた者として、私たちの歴史に、神さま、あなたが決定的に係わってくださる新しい創造の時の開始を聴いた者として、この年の歩みを始めさせてください。主キリストの御名によって祈ります。アーメン。


(2018年5月27日礼拝説教)


 
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