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 2018年7月8日 礼拝説教  【ただ、主を見つめて】 佃 雅之

出エジプト記14章5-14節、マルコによる福音書8章22-26節



今朝、司式者によって朗読された物語は、キリストと一行がベトサイダに着いたときの出来事です。ここでキリストは、人々が連れてきた一人の盲人を癒されます。キリストが盲人の“目に唾を付けて癒された”と書かれています。この物語を読んで皆さんが思い起こすのは、直前の7章31節以下に記された“耳が聞こえず、舌が回らない人が癒された話”だったのではないでしょうか。確かに、この二つの物語はとても似ています。人々が病に苦しんでいる人をキリストの前に連れてくる、キリストご自身が癒しの業を行う場所までその人を導く、そしてこの二つの癒しの業は、どちらも“唾を付ける”ことによって行われているということです。更に、この出来事は、どちらも、マルコによる福音書にだけ記されている物語だということです。注解者によっては、この二つの物語は元は一つの出来事であった、それを編集の段階で二つに分けたという人もいるほどです。ですがマルコによる福音書に14あると言われるキリストの治癒行為、その奇蹟の業は、その一つひとつが意図的に配置されたものであり、繰返されるキリストの治癒行為、その一つひとつにマルコの伝える福音の本質があると思われます。ですからこの時代に病への偏見によって疎まれていた者に最も必要なものをお与えになるキリストの姿を記録し伝えたのが福音書記者マルコであると言えます。病そのものに苦しむだけでなく、病のために、社会から、周囲の人々から好奇の目に曝される、生活権を奪われるというような救いを求める者に最も必要なもの、それは神からの祝福です。人々は神の祝福を最も必要としていたのです。痛み苦しみの中にある救いを求める者に祝福を与え、病を癒し、元の生活に戻される、新しい命を与えられるキリストの業、今日のテキストにはそのことが鮮明に書かれていると言えます。

ここに登場する目の不自由な人が、何人かの人に連れられてキリストの所にやって来た、そういう場面からこの個所は始まります。彼を連れてきた、人たちはいったい誰なのか、立場も関係性も名前も含めて全く分りません。そのような人たちが、ではどうして一人の目の不自由な人をキリストの前に連れてきたのか、彼らのことは全く分らなくとも、彼らの意図について、彼らの願いについてマルコははっきりと記しています。彼らの願いはキリストに触れて頂きたい、そのために一人の目の不自由な人がキリストの所に連れてこられたのです。“キリストに触れて頂きたい”、このことは目の不自由な人の願いでもあったでしょう。「触れる」ということは、「その人に手を置く」、「実際に手で触れる」ということです。その人の上に「手を置く」ということは「神の祝福を受ける」、そういう実際的な意味を持った動作です。この一人の目の不自由な人がキリストに触ってもらう、そうして神の祝福に与る、そういう願いを持っていたということです。

神の祝福ということを大事なテーマとしているのは新約の時代だけではありません。旧約の時代も同様でした。創世記に記されたアブラハムの旅立ちの記事、双子の兄弟エサウとヤコブの物語に神の祝福ということが象徴的に記されています。神は旅立つアブラハムに祝福を約束し、そしてまたエサウとヤコブは命懸けで神の祝福を奪い合っています。旧約から新約の時代に至るまで、神の祝福が聖書に登場する全ての人たちにとってどれほど必要なものであったのかが分ります。今、ここに集う私たち、教会においても礼拝のプログラムの一番最後がこの祝福です。この礼拝式順序にこそ、私たちが礼拝を献げている目的が示されていると言っていいでしょう。私たちは神から祝福されることなしに元の生活に戻っていくことはできない、神の祝福なしに信仰生活は成り立たない、そのことをよく示しているのが礼拝の終わりの祝福です。

では何故、私たちは祝福を求めるのか、祝福はただの言葉ではないからです。祝福に与ると具体的な変化が起こるのです。この目の見えない人なら、今までは見えなかったものがはっきりと見えるようになる、そういう具体的な変化を起こすのが神の祝福だからです。見えない人が見えるようになる、こうした人間に根本的な変化を引き起こすような力を神の祝福は持っています。“新しいい人間を生み出す力が神の祝福にはある”と言ってもいいでしょう。

初めにお話ししました通り、福音書記者マルコは今日読んでいます8章までに、キリストの癒しの業を幾つも福音書に書き残しています。しかもキリストの治癒行為の対象となるのは、回復が不可能と見做される心身の病や、生活する上で生きる力を完全に奪われた人たちでした。そういう意味において福音書記者マルコによるこの病の選択には人間の絶望、不可能という意味の象徴が込められていると思います。しかし、それをキリストは一瞬のうちに治癒させるのです。福音書を読む限り、本来的には時間を掛けてゆっくり治すというようなことはないのです。それは、キリストの治癒行為は罪と病との因果関係を断ち切って、治らない病、先天的な疾患など、あらゆる人間の絶望や不可能をキリスト自らが引き受けてくださる行為だからです。“人間の絶望や不可能をキリストという存在と交換して頂く”と言ってもいいでしょう。

ですが、この場面でのキリストの治癒行為は一瞬では行われていません。キリストは先ずこの目の不自由な人の手をとって自らが治癒行為を行う場所まで導きます。目の開ける所まで自力で出て行かなくてもいいのです。恵みの場所、祝福を与える場所までもキリストご自身が導いてくださるのです。そしてキリストはこの人の目に“唾をつけた”とあります。「唾をつける」とは「聖霊の授与」と言っていいでしょう。聖霊の授与とはその人と神との関係が明らかになることです。神と人との関係が解き明かされるということを意味します。キリストは十字架に死んで、しかしその肉体を以って甦り、そしてまた天に挙げられましたが、地上に残された弟子たちに、その霊を残されました。キリストはその霊によって今も生きている、そればかりか、その霊が今もなお、授与された者の霊に働き掛けているのです。キリストは顔を上げて霊の授与を欲した盲人に対して、遠くにあって何もせず、という態度を取らず、自らが出向き、手をとって連れ出し、その苦しむ人を救うために、その唾に溶け入らせた自らの霊によって癒されます。その霊によって盲人は肉体の目と共に霊的な目覚めを与えられたのです。そしてまたキリストの霊は、盲人を過去からの重荷、また因果の束縛から解放をした、キリストは盲人の過去とその束縛を解放してくださったのです。

 キリストは彼の目に唾をつけ、両手を置き、彼を祝福して“何が見えるか”と尋ねました。すると彼は、見えるようになって“人が見えます、木のようですが歩いているのが分ります”と応えています。キリストに祝福されたこの盲人が、徐々に見えるようになっていく様子、そのプロセスがこの個所では巧みに描かれています。目に唾をつけられ、キリストが手を置いて見えるようになる、“何が見えるか”、そのやり取りの後に、もう一度キリストがその手を彼の目に置く、すると、さっきよりもよく見えるようになって彼の視力は回復して行きます。そしてついに、“何でもはっきり見えるようになった”と言うのです。

この短い個所に、福音書記者マルコは「見える」という言葉を幾つも使い分けながら、この目の開かれて行く情景を念入りに記しています。それは、この場面が他の癒しの記述とは一線を画して、キリストの祝福、霊の授与という特別な神の恵みを受けるには、受ける側の態度が重要であることをマルコが伝えようとしているからでしょう。

或る神学者が、“霊性は万人に備わっているが充分に育てなければ顕れない”という言葉を残しています。それは“卵には命が宿っているが、孵化しなければ鳥が生まれない”のに似ているというのです。親鳥が卵を温めるときの熱、それが聖霊である、しかし“どんなに外から働き掛けても内にある霊がその働きを受け取ろうとしなければ目覚めた人になることはできない”と言うのです。盲人が顔を上げてキリストを見つめているうちに救いの霊が確かにその目に注がれていくのです。

ここで目の不自由なこの人が、キリストを見ることに、神の救いをその目ではっきりと見ようとする、その一点に集中しているという姿に私たちは気付かなければなりません。今日の週報の記載にあるように、当教会は先週、或る一人に人に、主の導きに従って洗礼を与えました。受洗者となった菅野沖彦さんは、介護を必要とする状態になってから、もう随分長い年月を寝たきりの状態で過ごしておられます。お連合いのお話しでは、元気だった頃は饒舌な人であったそうですが、洗礼が執行された日は、微熱があったこともあり、呼吸も荒く、起きているのが辛そうに見受けられました。それでも牧師の制定の言葉、誓約の問いかけに、そしてパプテスマの証人となった長老の呼び掛けには、少し潤んだ目を見開き、しっかりとお答えになりました。“今、この人の目にはキリストがはっきりと見えている”、私にはそう思えました。キリストを見る、神の救いをこの目ではっきりと見る、このことはこの礼拝に集められた者全てに、今日求められていることであると私には思えます。

今朝は、出エジプト記の14章も併せて読みました。イスラエルの民は神の導きによって着の身着の侭で、息も絶え絶えに走り続けてエジプトを脱出し、何とか海岸までやって来た、それが今日の場面です。ところがそこに妙な響きが聞こえてくる、しだい・しだいにその響きは大きくなり地鳴りのようになって彼らの耳と心を震わせます。轟きと共に土煙が遠くの方から迫って来ます。そしてやがてはっきりと、それがファラオの戦車隊であるということが分るのです。イスラエルの民が海岸を見降ろす崖っぷちで怖れつつ見た、その目に映ったのはエジプト最強の戦車隊600、その上、他の部隊も加わっている、数えきれない数多くの軍勢です。行く手は海に遮られています。彼らは絶望し、この状況から逃げ切ることは不可能だと思ったに違いありません。この時、イスラエルの民を指揮したモーセも彼らと同じ状況の中に居ました。彼らの目には、前方の海、また後方から襲いかかって来ようとしているエジプト最強の戦車隊しか見えなかったに違いありません。しかしモーセが見たのはそれだけではありませんでした。この時モーセが見たもの、それが13節に書かれています。

「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」。

絶望と不可能の中にあって、しかも同胞に責められている中にあってもモーセが見ようとしたのは主の救いでした。危険な状態に陥り生命の危機に直面したイスラエルの民たちは、誰かに責任を転嫁しようとしたり、何かを恨んだり、ただ自分だけを見て叫び、戸惑います。しかしモーセは、“何よりも見るべきことがある”、祝福された民にそう語ったのです。目も心も圧し掛かるような現実でいっぱいになっている時、その時こそ、敢えて落ち着いて、“今日、あなたたちのために行われる主の救いを見よ”、そういうことです。

私たちの日々にも、人間の力や知恵では解決できない、力及ばない、そういうことが確かにあります。私たちは痛いほど、悲しいほどにその現実を知っています。それならば、“主があなたたちのために戦われている、あなたたちは静かにしていなさい”、とモーセが語ったように、静まって、そして主が私たちのために戦ってくださる、そのことを信じて待つのです。祝福された者というのは、このモーセのように落ち着いて、“今日、あなたたちのために行われる主の救いを見る”、このことができる人間です。

主に祝されているという自覚に立ったとき、私たちは静まって主の救いの業を待つことができるのです。しかし、あらゆる救いの根底には、神を信じる力が求められます。神を信じる力とは、毎日、毎時間、毎秒を、神の導きに従い、共に歩み、顔を上げて、ただ主を見つめるということです。そういう私たちの態度を、主は敏感に感じ、受け留めてくださり、そこに愛を注いでくださるのです。キリストは、貧しき乏しき歩みである私たちの手を引いて、恵みの場所へと導き出し、この朝も、確かな恵みを与えてくださっています。私たちが、ただ行く手に見るべきはキリストなのです。私たちの主イエス・キリストは、礼拝を献げる私たちを、確かに祝福し、時に不信仰に目が曇る私たちに、時に受け止めきれない現実の苦しみ、悲しみのあまり涙で滲む私たちの目に、何度でもその手を置いてくださいます。キリストは弱き私たちが、キリストから目を背けることがないように、この朝も“何が見えるか”と、問い掛けてくださっています。
   
   
祈りましょう。聖なる神、御霊を注ぎ、今日も私たちに御言葉を与えてくださったことを感謝します。あなたの恵みによって、私たちの信仰の眼差しが澄んだものとなりますように。私たちがあなたに祝福されることで、あなたを信じ、あなたに信頼して従い歩み行くことが許されますように。そのためにただ主を見つめ、あなたの救いを確かに見る者とさせてください。
   
主キリストの御名によって祈ります。アーメン。


(2018年7月8日礼拝説教)


 
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